2000年 12月上旬の日記
▲12月1日(金)▼
朝、家を出て自転車に乗り、走り出してから気づいた。ZAURUSを忘れた!! これは困った。脳の一部を忘れたようなものである。何かあるたびに手を胸の内ポケットに入れようとして、持っていないことに気づく。あるべきものがないというのは哀しいものである。何だか手持ち無沙汰である。禁煙しているというのはこういう感じなんだろうか。
今日は通勤中に「山の上の交響楽」(中井紀夫:ハヤカワ文庫)の「駅は遠い」を読み終えた。これも凄い話ですな。いちいち意識しなければ身体を動かせなくなった男の話。それでも余計なことを考えてしまうのだが、「オレもこういうこと考えながら動いてるよなあ」と思わせてしまうところが凄い。発想も凄いし実現方法も凄い。まあ、完成した物が凄いからそう思ってしまうんだろうけど。
今日も遅くなってしまった。家に帰って居間に上がるが、誰もいない。寝室に入ると、妻子が寄り添って寝ていた。動物は気温が下がると集まるものである。ペンギンなんかはそれが本能になってるんだな。
▲12月2日(土)▼
カミさんに起こされた。8時である。体調が悪いらしい。「シンジ(仮名)、保育所に連れてってくれない?」と言われる。「自転車で息子を保育所に送ってそのまま仕事に行ったら、私が帰るまで子供用シートつきの自転車が使えなくなるなあ。歩いて行った方がいいか。すると会社に遅れることを電話しないといけないなあ。今日は何をやらなきゃいけないんだったっけ?」などと思っていたが、よくよく考えると今日は土曜日だった。そっか。寝ぼけていたな。
私が身を起こす前に息子は起き上がった。今朝はそれほど機嫌は悪くない。階段を下りる前に「なっとうごはん、たべよな」と言う。そうか、腹が減ってるか。父親と一緒だったら納豆が食えるというのがわかってるんだな。しかし私が顔を洗って居間に戻ってくると、彼は誕生日に買ってやった電車の本を読んでいた。電車の写真を一つ一つ指差しながら何だかんだと喋りかけてくる。相手をしないと怒る。腹が減ってたんじゃなかったのか。
保育所に着くと息子は急にメソメソしだす。「とーちゃんと、いっしょが、いい」とか言うので保育所にいたくないのかと思ったら、連絡帳やタオルを所定の場所に置きに行くのにも手をつないでいてくれと言うのである。そして、私がやるべきことがすべて終わると、私にまとわりついてくる。抱き上げてくれとしきりに訴える。抱き上げると泣く。けっきょく、今朝彼は保母さんに抱かれて泣きながら父親と別れたのであった。
家に帰るとカミさんは通信をしていた。体調が悪いなら寝ていろよ、とか思ってしまうのだが、もちろんそんなことは言えない。私は今日は店から帰ってきたハードディスクを恐る恐る使ってみる。最初のうちは調子よく書き込んでいた。店で初期化してもらって治ったのかな…と思っていたら、やっぱり出てしまった。ドライヴが存在しないとか言っている。こんなに不安定じゃ、使っていられない。やはり叩き売るしかないか。こういうものは値下がりが激しいから早く売るべきだが…
仕事が最悪の状況になりつつある。来週の土日は休めないかもしれない。今日は息子が保育所に行っている間に自分の用事を片づけようと思っていたのだが、気がつくと息子を迎えに行く直前の時刻になっている。おかしいなあ。いつの間にこんなに時間が経ったんだ?
今日は息子を迎えに行くときにカミさんに惣菜を買ってくるように指示されたので、今週近所にオープンした大型のスーパーに偵察も兼ねて買い物に行く。しかし、凄い人出である。カミさんが行こうとして長蛇の車の列に呆れて引き返してきたのも分かるような気がするな。関東系のスーパーが満を持して乗り込んできただけあって売り場はかなり広い。それでも人で一杯だ。みんな、憑かれたようになって物を買っている。超目玉商品が数点あるが、全体として見るとそれほど安いとは思えないんだけどなあ。まあ、こういう高揚した気分というのは伝染するからね。鳴り物入りで人を集めてしまえば勝ちなんだろう。しかし、私はそれに乗れない人間なのである。祭りなどでもぜんぜん楽しくないので、人生を損してるかもしれないなと思うこともあるくらいだ。けっきょく息子にトイレでオシッコをさせただけで出てきたのであった。彼は人混みの中を長距離歩き回ったので疲れたようである。彼を負ぶって出口の方に歩いていたら、急に自分で下りてしまった。ちょうど横がオモチャ売り場だったのだった。おいこら、疲れていたんじゃなかったのか。
▲12月3日(日)▼
今日は久しぶりにヒッパレを観た。今週は「Everything」(辛島美登里&JAYE'S MASS CHOIR)くらいか。辛島美登里さんは独りで歌い上げるタイプなので、クワイア相手だとツラいかなと思ってたんですが、やっぱりちょっと負けてましたね。あれにパワー負けしないようにしようと思えば、やはり大きな器が要るのである。
昨日カミさんに今日の予定を訊かれたので「シンジ(仮名)、京阪に乗りたがってるみたいやから京阪にでも乗りに行くか」と応えたのである。今日は雨模様なのでどうしようかと思っていたのだが「シンジ(仮名)連れて京阪に乗りに行くんでしょ。雨が降ってるって? 車で送ってってあげるわよ」と言われてしまった。まあ、送ってくれるのはうれしいけど、何だか追い出されるみたいだなあ。
カミさんに地下鉄の駅まで送ってもらう。車を降りる前に息子に「京阪電車、乗りたいんか」と意思を確認すると、息子は口ごもる。どうしたんだ。するとカミさんが「父ちゃん怒ってるん違うで。乗りたいんやったら『乗りたい』言わな」と言った。そう言われて、ためらいがちに「のりたい」と応える。そんなに遠慮しなくてもいいのに。どうしてそうなるかな。そんなに強い口調では無かったつもりなんだが。
息子と地下鉄に乗って淀屋橋まで行く。地下鉄の改札を出る前に再度意思確認をする。うなずいたので、京阪に乗り換える。ホームに下りると、まずやってきたのは準急電車であった。息子は「じゅんきゅうや!」と声を上げる。もう字が読めるんだねえ。続く普通電車の到着を見て、特急電車を待つ。すぐにやってきた。2階建て車両がある。息子に「2階建てに乗るか?」と訊いたらうなずいたので、ホームを走るのである。京阪の特急はデラックスなのに特急料金が要らないんだよな。
何とか2階席に2人並んで座れた。息子は2階建て車両から見おろす視線の高さにいたく感心したようである。感に堪えないように「たかいなー」「たかいなー」と繰り返す。ずいぶん興奮しているようである。そうでなきゃ、こちらも張り合いがないからね。
京都に着いてトイレでオシッコをさせ、帰りに自分の好きな席に行くように言うと、息子は2階建て車両の階段を下りて1階席に座った。しかしすぐに彼は「みえへん」と言う。そりゃそうだよな。窓がホームの地面すれすれにあるんだから。「上に行くか?」と訊くと、すぐに頷いて立ち上がる。2階に上がると、ちょうど2人掛けの席が空いていたのだった。
帰りの電車の中で息子がいきなり「よぉえぇべーてぇん」と声を出し始める。何かと思ったら。それを2回繰り返した後「あなたーがー」と言い始めた。ああ、「Everything」なのね。車に乗ると母親がずっとかけてるからねえ。でもやっぱりもう、耳が日本人になっちゃってるねえ。日本人だからそれが当たり前である。日本語もできないヤツに英語の訓練なんかする気はないからね。
電車好きの息子でも、長時間電車に乗っているとさすがに疲れるようである。帰りの地下鉄の中では、隣に座って私の膝の上に頭を乗せていた。彼が頭を上げると、そこにはヨダレの痕が。
地下鉄の駅で降り、また例によって古本屋で待ち合わせである。古本屋に入るとついつい本を買っちゃうのよね。今日は以下のものを買ってしまった。
「占星師アフサンの遠見鏡」(ロバート・J・ソウヤー: 1994)\620→\100
「タイム・シップ 上/下」(スティーヴン・バクスター/中原尚哉:ハヤカワ文庫 1998)\680+680→190
今夜も私が息子を寝かせる。彼はひとしきり私の布団の中でぺちゃぺちゃ喋った後、少し静かになったなったなと思ったら自分の布団に引き上げていった。どうも、本格的に眠くなって寝るつもりになると自分の布団の上に移動するようである。父ちゃんの布団はホームグラウンドではないのね。
▲12月4日(月)▼
今日は昼休みに職場近くの書店で「遺響の門」(中井紀夫:徳間デュアル文庫)を買った。今夜から重い荷物を抱えて東京に移動しなければならないというのに、私は何をしているのだろう。今読んでいる本に加えて、予備の本も鞄に入っているのであるが。
今日、客先への移動中に「山の上の交響楽」(中井紀夫:ハヤカワ文庫)の最後の作品、「電線世界」を読み終えた。この作品は考えさせられる点とか切な感というのは他の作品よりは少なかったが、単純に楽しめた。しかしこの人の作品、性描写が大らかでカラッとしているのがいいですね。
続いて「20世紀SF 1 1940年代 星ねずみ」を読み始める。まずは「星ねずみ」(フレドリック・ブラウン/安野玲)であるが…ブラウンなら、もっと面白い作品がありそうなもんだがなあ。それに、タイトルはぜったい「スターマウス」の方がいいと思うんだが。読み終えたときには名古屋だったのだが、どうにも頭が痛くなってきた。あとは、頭を座席のシートに押しつけてひたすら休むのである。
1:48地震。東京に出張に来てて地震に遭って死んだらマヌケだよなあ…などと思いながら揺れ続けるカーテンを眺めている。横にけっこう長く揺れてたから、遠くの地震かもしれない。そうすると、かなり大きな地震かもしれないな。ホテルの9階の部屋にいるせいかもしれないけど…などと思いながらテレビを点ける。今回は速報が出るまで10分かかった。震源は茨城の方か。それほど大きな地震ではなかったな。やはりビルの上にいたから揺れが長く続いたんだな。
▲12月5日(火)▼
京王電鉄は忘年会シーズンに女性専用車両を試験運行するらしい。男性でも痴漢だと疑われたくないから男女別のほうがいいという人も多いかもしれないな。そうなると逆に女性は女性専用以外の車両に乗るのが勇気が要ることになっちゃうんじゃないだろうか。男女混合の車両に乗ってきたからといって触ってもいいというわけじゃないのは当たり前の話である。いっそのこと全部男女別にしてしまった方がいいのかもしれない。そうすると、将来は男女混合の電車に憧れたりするのだろうか。
「昔は男女が一緒に電車に乗ってたんだって」
「へー、スゴイなあ」
「スシ詰めになってたりしたらしいぜ」
「信じられない。一度そういう目に遭ってみたいもんだ」
などと考えると、満員電車に乗るのが楽しく……ならんよなあ。
帰りの新幹線の中で「20世紀SF 1 1940年代 星ねずみ」の「時の矢」(アーサー・C・クラーク/酒井昭伸)を読み終えた。これは面白かったっすね。文章も読みやすいし。こういうアンソロジーだと、訳者の力量の差も出てしまうからなあ。
弁当を食べるとまたたまらなく眠くなって寝てしまう。けっきょく京都まで動けなかった。新大阪までにゆっくり身体を目覚めさせ、環状線に乗り換えて「AL76号失踪す」(アイザック・アシモフ/小尾芙佐)を読み終えた。これは、まあまあだったな。文章のリズムがもう少し良ければいい感じだったんだろうけど。続いて「万華鏡」(レイ・ブラッドベリ/安野玲)を読了する。いやー、これは良かったっすね。「読んでない奴は死ね」と言われただけのことはある。こういうシチュエーションを創り出して、こういうドラマを展開するところが素晴らしい。サイボーグ009はこれの本歌取りだったわけね…と、一般教養の無さをバクロするのである。
家に帰ると、さすがに息子はもう寝ていた。今夜は寝かされずにすみそうだな(苦笑)。カミさんがインターネットしている横で出張用のFIVAで更新したデータをThinkPadにコピーしているとEthernetのハブが一杯である。4ポートだとギリギリなのね。しかし腹が減った。19時前に新幹線の中で小さ目の弁当を食べただけだったからなあ。菓子類を少々つまむが空腹は治まらない。ついにはカップラーメンを食べ、デザートにバームクーヘンまで食べるのである。
▲12月6日(水)▼
朝食を食べると腹が痛くなってきた。昨夜、暴飲暴食したせいだろうか。家を出る前に2回もトイレに駆け込むことになってしまった。おかげで遅刻だ。
今日も通勤中に「20世紀SF 1 1940年代 星ねずみ」を読んでいる。往路で「鎮魂歌」(ロバート・A・ハインライン/白石朗)を読み終えた。くーっ、泣けます。笹本祐一に通じる、SFのひとつの流れの源流がここにある。宇宙への夢、あこがれ、そういうものがここには、ある。ああ、やっぱりSFは素晴らしい。しかしこの作品、私が生まれる前(ということは人工衛星が打ち上げられる前!?)に描かれたんですよねえ。とても信じられない。凄いリアリティである。
今日は昼休みに客先の近くの古本屋に行き、以下の本を買った。
「いまだ生まれぬものの伝説」(中井紀夫:ハヤカワ文庫 1990)\480→\210
「電脳セッション」(東野司:ハヤカワ文庫 1991)\500→\210
「スーパーサラリーマン」(草上仁:ハヤカワ文庫)\460→\210
仕事がテンパッているにもかかわらず、こういうところに行くとは…まあ、気分転換である。胃の調子が良くないので、あまり食欲がない。マクドナルドで半額のチーズバーガーとフィレオフィッシュを買って食べる。これで200円は確かに安いが、すぐに腹が減りそうだな。やはり腹持ちは米の飯が一番だ。
今日から背広の上にダウンジャケットを着て通勤している。しかし帰るときに忘れて、階段を駆け上って取りに帰ることになってしまったのだった。やはり歳を取ると環境の変化に対応しにくくなるのであろうか。家に帰る途中も、本を読みながら何度か気を失った。これは、我ながらそうとう疲れているな。
いま大阪でやっている仕事がピークになっているので、今日も帰るのが遅くなる。真夜中である。客先ではインターネットにも繋げられないのでニュースさえも見れない。いつもなら家に帰ってすぐでもカミさんと話が合うのだが、PCの画面を見ながら「へえ!」とか言ってカミさんに馬鹿にされる。だってカンヅメなんだから。世間の情報というと、帰りの電車の中でオジサンが読んでる夕刊紙の見出ししかないんだよお。職場で仕事の合間にニュースのサイトを見るということさえできないので、家に帰ってからインターネットを巡回するのにも時間がかかる。家に帰るのが遅いうえにこれでは、ますます寝るのが遅くなるなあ。でも鈴木その子さん、亡くなったんですね。あのヒト、怖かったからなあ。ワタクシ的にはアシモの方がよっぽど人間的に見えるくらいなのである。しかも自分がそれを美しいと思っていたらしいところが…それとも、そう思ってたのは私だけ?
▲12月7日(木)▼
昨夜は、通信をしている体勢のまま死んでしまっていた。カミさんにひっくり返されてタオルケットを掛けられる。気がつくと朝の7時半であった。普通に寝たとしても起きなきゃいけない時間じゃないか。それでも寝てしまったために廻れなかったサイトを廻るのである。そして日記を書いているところでカミさんが起きてきた。今日はかなり短いが、上げる。現実の日付と1週間以上離されると、挽回が困難になってしまう。昨日のことさえ覚えていないのに。まあ、全ての日の日記を書かなければいけないということはないのだが。
今朝は息子は元気である。食欲もある。自分はパンを頬張りながら、母親が皿の上のパンを取り上げると「シンちゃん(仮名)の!」と言って取り返す。そのうちに両手に持って食べ始めた。けっきょく残すことになるんじゃないだろうか…などと思っていたのだが、気がつくと彼はその次のパンを食べていたのであった。
今日も通勤中に「20世紀SF 1 1940年代 星ねずみ」を読んでいる。会社への往路で「美女ありき」(C・L・ムーア/小尾芙佐)を読み終えた。これは凄い作品でしたね。こういうのを読んでしまうと、SFでも作品の面白さというのは時代性よりも作者の実力だよなあ、などと思ってしまうのであります。いくら新しくても面白くないものは面白くないし、昔の作品でも深い思索の上に構築された世界は、センス・オヴ・ワンダーを感じさせてくれる。大切なのは想像力と表現力…って、こりゃどんな小説でも同じじゃないか。いや、小説どころか創作すべてにおいて。
徹夜になってしまった。もともと今の仕事は年末の2ヶ月でデータウェアハウスを1つ立ち上げてしまうというとんでもないスケジュールで進んでいるのだが、それを受けた我々にノウハウがないものだからなかなかうまく進んでくれない。夜になって明日までにやらなければならないことを打ち合わせていたら、やるべきことがボロボロ出てきてもうどうにも間に合わない雰囲気になってきたのである。
しかし、ふだん煙草を吸わない人間でも徹夜になると吸い出したりするんだな。なぜなんだろう。気がつくと吸っていないのは私だけである。眠気覚ましになるんでしょうか。それともストレスを紛らわすため?
▲12月8日(金)▼
けっきょく、一瞬たりとも横になることもなく客先の仕事場で夜を明かしたのであった。しかし、始業時刻前になってもやるべきことは終わらない。今日になるまでにやるべき作業が曲がりなりにも終わったときには10時を過ぎていた。またこれから今日も一日仕事である。
昼休みに客先の食堂に下りて行くと、労働金庫や郵便局の人が来ててポケットティッシュを配っていた。後で聞くと、今日は客先のボーナス支給日だったようである。やはり大きくて有名な会社はボーナスも多いのであろう。ウチの会社なんか、バブルのときでもそういうのは来なかったもんね。
先日、箸の持ち方について「普通は中指と人差し指に1本ずつ乗せて扱う」と書いたが、今日の昼飯を食っているときに自分の手元を見ていてどうも違うようだと思った。1本を薬指の先と親指の腹の根元で固定し、もう1本を親指・人差し指・中指の3本でコントロールしながら食べている。これが正解だと言うつもりはないが、少なくとも私はこうしている。
今日も22時半まで仕事をした。家に帰る途中にも本を読みながら何度も気を失う。こんな短い時間でさえ集中することもできないのか。それでも必死で目を見開いて「20世紀SF 1 1940年代 星ねずみ」を読む。「生きている家」(ウィリアム・テン/小尾芙佐)は、さすがにネタは古いが面白かった。
▲12月9日(土)▼
階上で妻子が起きる気配で目が覚めた。8時か。昨夜も、ThinkPadに向かって気を失っていて、カミさんに寝かされてタオルケットを掛けられていたのである。3日続けて布団の上で寝ていないことになるな。何よりもストーブが点けっぱなしだから光熱費がかさむのである。しんどい思いをして残業代をもらっても、そのことによりこういうことで浪費してたら何をしてるのかわからないよなあ。起きてきた息子は私の顔を見ると「ひとつ、いったら、おやすみ?」とか言っている。よっぽど保育所に行きたくないんだな。まあ、それで引き算の概念を覚えてくれれば…
今日も休日出勤である。玄関に下りて準備をしていると、息子が階段の踊り場の所にやってきて「いってらっしゃーい」と叫ぶ。母親にそうするように言われたらしい。私が家を出て戸を閉めると居間のほうに駆け戻りながら「『いってらっしゃい』ゆーてきたよ」と言う声が中から聞こえてきたのであった。
今日も電車の中で本を読みながら何度も気を失う。落ち着いて本も読んでいられない…って私の内部の問題だからなあ。
客先の作業場所で昼過ぎになって誰かが食べているインスタントラーメンの匂いが漂ってきた。腹が減った…しかし、胃が重い。頭は食いたいと要求しているのに胃が食いたくないと言っている。困ったもんだなあ。自分の肉体も一枚岩ではないと感じるひとときである。まあ、岩ではないのは当たり前だけど。
客先からの帰りに「消されし時を求めて」(A・E・ヴァン・ヴォート/伊藤典夫)を読み終えたが…面白くねー。スランは好きだったんだけどなあ。まあ、体調が悪いと評価が低くなる傾向はあるのだが。
今夜は終電一つ前である。そういえば昨夜、家に帰るときの電車がいやに混んでいたのは12月の金曜の夜だったからなのね。今日、他人に言われてはじめて気がついた。まったく曜日の感覚が無くなっているからなあ。そういえばみんな上機嫌だったと思ったんだ。みんなアルコールが入ってて、まるで東京の電車に乗っているようだった。…ということは、東京という街は毎晩忘年会状態だということなんだろうか?
▲12月10日(日)▼
8時に目が覚めた。ここしばらくロクに寝ていないのに起きるべき時刻に目が覚めてしまうとは、何たることであろうか。昨夜も4時過ぎまで起きていたというのに。しかしそれなのにカミさんは起きない。私よりも先に寝たんだが。まあ、今日は息子が休みなのに私が相手をできないので寝かせておいてやるか。
朝のわずかな時間を利用して日記を書く。しかし、こういうときに限って筆が進むというのはどういうことであろうか。普段は余裕がありすぎるのかな。日記を上げ、例によって食パンとチーズと野菜ジュースで朝食をとる。
様子を見に寝室に入ってゆくと、カミさんに寄り添って寝ていた息子が「とーちゃん、かえった」と声を発した。ううっ、起きちまったか。だったらカミさんにも起きてもらわなきゃいけないな。「起きてくれー。『雨が降ってるから駅まで送ってくれ』とまでは言わんから」と言うと「だったら送ってってあげるわよ」と応じられてしまった。いや、そういう意味では…多少はあったんですけど。
今日も仕事である。週半ばに完徹したうえに毎日22時23時まで仕事をしてさらに土日も休日出勤とは、何とも殺人的なことである。まあそれでも、昨年の今頃に比べると気分的にはだいぶ楽なのだな。朝だけとはいえ毎日息子の顔は見れるし(そのぶん通勤時間は長いのだが)、あの頃は半年以上地獄が続いたからなあ。
引き続き通勤中に「20世紀SF 1 1940年代 星ねずみ」を読んでいる。今日は往きに「ベムがいっぱい」(エドモンド・ハミルトン/南山宏)を読み終えた。理屈は古いし筋も読めてしまうが、それでもなかなか面白い。古典とはこういうものなんでしょう。次の「昨日は月曜日だった」(シオドア・スタージョン/大森望)も、なかなかセンス・オヴ・ワンダーであった。「ひょっとすると『この』世界もそうかもしれない」とか思ってしまったり。
最後は「現実創造」(チャールズ・L・ハーネス/中村融)である。これは面白かった。「世界」と「人間の認識」の関係を揺るがすのがテーマなのだが、作中での論理の展開が非常にスリリングである。この時代にこういうものを書いた人がいたんですねえ。解説を読むと、この人も堀晃さんと同じく兼業作家で寡作だったそうですけど、やはり頭の中で充分に練り上げられて出てきているように感じる。やはり、しっかりしたSFというのは充分な熟成が必要なのだな…などと思いながら読んでいたのだが、最後がちょっとナニでしたな。まあ、あれだけ大風呂敷を広げたら、畳むのも大変だろう。畳めないほどの大風呂敷を広げるのもSFの魅力の一つだと思うんだよね。そりゃ、うまく畳んでほしいんだけどさ。でも、大風呂敷が広がってゆく過程を見るだけでも充分ワクワクするからね。それで畳めりゃ拍手喝采だぜ。
狼谷辰之 | 新書館*ウィングス文庫 |
対なる者の誓い |
¥620+税 | ISBN4-403-54021-X |
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