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▲2月21日(土)▼ →
息子は昨日に私が買ってきた「ぼくドラえもん」の創刊号をけっこう気に入ったようで、暇があれば付録の小冊子や本誌を見ている。付録にDVDもついてきているのだが、本を読むのに夢中でその認識もなかったようである。カミさんのPS2で再生させると、これも何度も観ているのであった。しかし、500円の雑誌の付録にDVDがついてくるとは、すごい時代になったものだなあ。
カミさんにカレー肉を買ってくるように頼まれた。息子を連れて行くことにする。彼は家を出るのを嫌がったが、小学生のくせに家にこもってばかりというのも不健康なので無理やり同行させる。しかし歩き始めると、早足で歩いている私に先んじようと駆けて楽しそうである。しかしそのせいかスーパーに着くとノドが渇いたと言いだした。仕方ないのでプライベートブランドのレモン飲料の500mlペットボトルを買って飲ませる。続いてディスカウントストアに入ると、カレー用と書いてあるのは豚肉しかなかったのだが、その値段は前に入ったスーパーで売っていた牛肉のほぼ半額であった。カミさんに電話すると彼女は牛肉の方がいいようだったが、値段に負けて豚肉を買って帰ることにするのである。
Linuxザウルスで通勤中に書いている日記の元データは週単位にパソコンにコピーしている(だから、ウチは日記の更新が1週間遅れなのだ)。今日もSDカードに入っているテキストデータをディレクトリごとCFカードにコピーしてパソコンに挿しなおす。しかし、Windowsマシンで開いてみると、そのフォルダの中身が無茶苦茶になっているのである。日単位に1週間分5つのテキストファイルが入っているはずが、化け化けのファイル名がリストにズラッと表示された状態になってしまっている。うがー、またCFカードへの書き込みに失敗したか。
しかし、前に直接CFカードに書いていて失敗してデータが消失したのに懲りたので、最初はSDカードに書く運用にしているのである。へへっ、元データは残ってるもんねー(やけ)。パソコンでCFカードのディスクチェックを行う。エラーは出ない。「ファイルシステムエラーを自動的に修復する」と「不良なセクタをスキャンし、回復する」にチェックをつけて再度開始してみると…CPU使用率が100%になってしまった。しかもかなり時間がかかっている。何をやっているんだろう。モバイルPentium 4-Mの1.8GHzなんですぜ。
けっきょく何もメッセージが出なかったのだが、件のディレクトリの中身を見ようとすると「パスが正しくない」というようなエラーになってしまう。それでこのディレクトリを削除して、コピーしなおすためにまたLinuxザウルスに挿す。すると、消したはずのディレクトリが復活しているのである。わけがわからん。別の名前でコピーしてWindowsマシンに戻すと、やはり消したはずのディレクトリは復活していた。うーん、理解不能だ。
今夜は私が子供たちを寝かせる。娘を抱き、息子と一緒に寝室に上がる。息子に本を読んでやったあと、娘は暗くすると怖がるようなので今夜は明るくしたまま寝かせることにする。しかし、親子3人で布団の中に入ってしばらくすると、やはり娘は泣きはじめるのである。けっきょく泣きやまず、カミさんのところに連れて下りることになるのであった。
▲2月22日(日)▼ →
私が起きたときには息子は家を出ていた。今日は彼の祖母と公園に行っているのである。今日の天候は荒れるという予報だったのだが、曇っていても出かけるのには支障がなかったようだ。
カミさんは昼前に寝室に入っていった。まだしばらく雨は降りそうにない。天候が荒れるなら散髪するつもりだったんだけど止めようかな…と思っていたのだが、行ってしまうことにする。今週は会社で社員証用の写真撮影があるのである。髪を伸ばしていると、カミさんに「オタクに見えるから」というので嫌がられるんだよな。まあ、そう言われるということはオタクではないと思われているということなんだろうけど。
散髪から帰ってきたときにはカミさんは起きていたのだが、またすぐ昼寝に入ってしまった。娘が泣き出したのでミルクを作ってやるがほとんど飲まない。どうも眠たいようだ。寝室に連れて上がって布団の中のカミさんにお渡しする。
独りでパソコンをいじっているとカミさんの実家から電話が入った。息子が公園から帰ってきてからもまだ遊びたいと言っているというので、私が引き継いで遊ばせることにする。キャッチボールをしたいと言うので、家の前でキャッチボール。彼が投げたボールが停めてある車にぶつかりそうになったので、中止して家で将棋をすることにする。引き続き9枚落ち。これはもう、笑ってしまうくらいの完敗。しばらく指してないから退化してるんじゃないかと思ってたんだが、そうでもないのかな。
直木賞を獲った金原ひとみ氏のお父上があの秋山瑞人氏の先生だったという。すると、あのペンネームは師匠の名前をもらったということになるのかな。秋山瑞人氏にそれだけ尊敬されているのだとすれば、偉いものである。
▲2月23日(月)▼
今日は通勤中に「青春歌年鑑 1982」(→【amazon】)を聴いている。70年代に比べると男性アイドルのレベル低下がはなはだしいように感じる。とくに「君に薔薇薔薇…という感じ」(田原俊彦)あたりは酷い。何でこういうのが入ってるんだ。まあ他人が金を払ってることに文句つける筋合はないんだけど。でも、それに対して「けんかをやめて」(河合奈保子)や「赤いスイートピー」(松田聖子)はアイドルにしては良いですね。さすがに竹内まりやさん松任谷由実さんの曲は偉大だ。
そして今日、「ドミノ」(恩田陸:角川文庫:→【amazon】:→【bk1】)を読みおえた。さすがに前半のテンションは維持できなかったようだが、充分に楽しませていただきました。満足じゃ。
今日は退社するのが遅くなってしまった。ジュンク堂の入っているビルに閉店5分前に駆け込み、エスカレータに向かっていると、ちょうどお姉さんが上に来て上りエスカレータの方向を反転させるところだった。間に合わなかったか。まだビルの反対側のエスカレータは上がれるはずなので、急いで1階のフロアを横断する。そして2階に上がり、またフロアを横断して文庫本の新刊コーナーに戻る。何をしているのやら。
新刊文庫やライトノベルのコーナーには何もめぼしいものはなかったが、コミックスのコーナーで「プラネテス 4」(幸村誠:モーニングKC:→【amazon】:→【bk1】)と「ブラックジャックによろしく 8」(佐藤秀峰著:モーニングKC:→【amazon】:→【bk1】)を見つけた。今日は「プラネテス」を買う。時間がないので「ブラックジャックによろしく」は明日だ。
家に帰ると23時近く。妻子はすでに寝ていた。買ってきた「プラネテス」を読んでみる。木星に近づいて「シマシマが目で見えるようになってきた」状態というのは、何だか厳粛な気持ちになりますな。そしてこの終わり方は…何というか、やっぱり結論は出ないんでしょうなあ。まあ、作者が好んで問題を複雑にして答えのでない方向に持って行ってるような気がしないでもないんだが。
コミックスにパンフレットが挿んであったので、アニメ版のサイトに行ってみる。プロモーションビデオが観れないので、Windows Media Codecs 8.0 インストール パッケージを入れてみることにする。これを入れて動画再生環境がヘンになると困るので、別ドライブから起動して常用のシステムドライブの内容をファイルサーバのバックアップに同期させる。それからまた常用のシステムから起動してコーデックをインストールし、再生してみる。
でもやっぱり見れないのである。「Windows Media 9 Series Codecs インストール パッケージ」というのもあるようだが、Windows Media Player のバージョン 7.0 以降じゃないといけないと言われてしまうのである。自慢じゃないが、私のマシンのWindows Media Playerは6.4にしているのだ。まあいいさ、オープニングはRealだから見れたけど、どうもイメージが違うと思っちゃったんだよね。
▲2月24日(火)▼ →
今日は通勤中に「青春歌年鑑 1981」(オムニバス:→【amazon】)を聴いている。この年も「チェリーブラッサム」(松田聖子)とか「まちぶせ」(石川ひとみ)とか、女性アイドルが頑張っている。やっぱり曲がいいんだよな。これも曲は財津和夫氏と荒井由実氏ですか。そういう意味では当時から松田聖子に対するプロデュースはすごいなと思ってたんだ。それを再確認しているのである。
短篇集で読みたいものがないので「春の軍隊」(小松左京:新潮文庫 1979:→【amazon】)を読み始めている。まずはタイトル作の「春の軍隊」である。冒頭の風景描写が素晴らしい。まるで主人公と一緒に早春の空気を吸っているような気分になる。最近の若い作家の文章とは明らかに格調が違うな。でも、思ったのはウチの息子などの世代はこの文章を読んでイメージを想起できるのかということ。やっぱり春の日差しの中で田舎道を歩いた経験がないと、こういうのは理解しようがないよなあ。
こののどかさが描写されているからこそ、そこに軍隊が出現したときの違和感が際立つんだな。だからこそ、細かい描写に力が入っている。戦場の描写もリアリティ満点である。怖い。ほんとうに怖い。このテーマも描写も、戦争体験者ならではだなあ。
かつて、「戦争の悲惨さを表現しようと思えば、日常生活を丹念に描いて、読者がそれに感情移入したところで戦争を起こしてそれまでの日常が目茶苦茶になるところを描くべきだ」と考えていた。その一つの形が「最終兵器彼女」であったわけだが、すでに小松左京がやっていたわけだな。
そして、もちろん小松左京であるからこれだけでは終わらず、社会・政治の問題へと話が拡がってゆく。…しかし、まだ短編を読んでいる途中だというのに、この私にこれだけ文章を書かせてしまうとは、畏るべし、小松左京。
昼休みに近くの本屋で「Newton」を買う。天文にハマっている息子への土産である。漢字が多くて一人では読めないとは思うんだが、イラストや写真だけでもインパクトはあるだろう。太陽系の衛星の最新の一覧が載っているだけでも意味があると思うんだな。…しかし、この雑誌のサイト、更新が止まってるんじゃないのか。大丈夫か?
新型立体映像システムですか。すげえ、こりゃSFだSFだ。
▲2月25日(水)▼ →
今日は通勤中に「TUBEST」(TUBE:→【amazon】)を聴いている。今週はこれから3日間、続けて長時間移動する予定なので、TUBEのベストを3枚続けて聴いてみようという魂胆である。そして、聴きはじめて思う。「そうか、TUBEも最初の頃はそんなに大したことなかったんだ」。そういえば、「THE SEASON IN THE SUN」がファーストアルバムじゃなかったよな。それでも、どの曲も聴いていて気持ちいい。とくに「シーズン・イン・ザ・サン」からのシリーズは乗りに乗っていた時期だけに、演っている方も実に楽しそうである。
引き続き「春の軍隊」(小松左京:新潮文庫 1979:→【amazon】)を読んでいる。2日かかって「春の軍隊」を読み終えた。読んでいていろいろ書きたくなったから時間がかかったんだな。理不尽な戦闘が終わり、そこには変わらぬ自然の営みが残されるのだ。戦闘が終わった後の喪失感——それがあの8月15日につながる。
今日は朝から京都で作業を行うので、続いて「ダレカガナカニイル…」(井上夢人:講談社文庫:→【amazon】:→【bk1】)を読みはじめる。冒頭の「ツカミ」から巧い。直前に小松左京先生の作品を読んでいたというのに、まったくひけを取らない。ちょっと薄味だけど。明らかにあり得ないことを描いているわけだから、このあたりの描写が甘いと読む気が失せてしまうんだよな。
頭の中に他人が入ってくるという設定は今までにもあったような気もするが、この作品は表現が素晴らしい。いかにもこういうことになりそうだ、という感じがする。自分の中に他人の意識が入ってきたときの「どうにもならなさ」の表現も巧い。そして、この作品も「自己とは何か」「自分が存在するということは証明できるのか」という問題に入り込んでゆく。ううむ、「我思う。ゆえに我あり」。こういう手があったか。まさしくイーガンのごとき問題提示である。この作者は、そのへんのSF作家よりもよっぽど精神がSFしているような気がする。
今日も仕事場に行く途中で壬生寺の前を通る。最近、観光客の数が多いような気がする。やはりNHKドラマの影響なんだろう。なんでそういうものに影響されて見に来るのかよくわからないんだがな。今日もそちらに向かっていると前方で京福電鉄の踏切が閉まった。こちらに歩いてきた観光客らしい初老の男女が後ろを振り返る。「生茶」のペイントを施された1両編成の電車がやってくる。彼らは「可愛いー!」「生茶〜」と声を上げる。なんだか仕事場に向かっている自分がこの場所に似つかわしくないように感じてしまうのであった。
▲2月26日(木)▼ →
昨夜もそうだったが、冬が遠ざかりつつあるのを感じる。気温が低いのは低いのだが、肌を刺すような寒さは感じない。もう2月も終わりだからな。春が来れば、娘も気軽に外に連れ出せるようになるだろう。
今日は移動中に「TUBEst II」(TUBE:→【amazon】)を聴いている。予想されたことではあるが、やはり1枚目に比べると密度が低い。まあそれでも充分聴きどころはあるのだが。
今日も昼から京都に移動して打合せ。もう日中はコートを着て速足で歩いていると汗ばむほどである。途中でジュンク堂に寄り、「ハイウイング・ストロール」(小川一水:ソノラマ文庫:→【amazon】:→【bk1】)が出ていたので買う。まあ当然でしょう。
そして移動中には引き続き「ダレカガナカニイル…」(井上夢人:講談社文庫:→【amazon】:→【bk1】)を読んでいる。やはりこれはSFの感覚だ。見たことのないものが目の前にありありと現れ、体験できる。しかも、その1点を除いて筋が通っている。それに、女性が魅力的なのもポイント高し(笑)。そういう意味では、恋愛小説としてもよくできているな、この作品は。人を好きになるドキドキと愛し合う喜びを味わわせてくれるのである。
今日も帰路はこの作品を落ち着いて読みたくて、遠回りして座って帰る。それなのに、あと少しというところで家の最寄り駅に着いてしまった。くそお。ちょうどクライマックスですな。すごい展開になってます。
家まで歩き、食事をしてパソコンをいじっていると、例の人格の正体について自分の中で説明がついた。たぶんこうじゃないかなという気はしていたのだが、合理的な説明ができなかったのだ。たぶん、これが真相だ。「かごめ」の説明からしてもこれが正しいのではないだろうか。しかし、しばらく間を空けて落ち着いて考えたから気づいたが、あのまま流れに飲み込まれるようにして読んでいたら思いつくことはできなかっただろう。
カミさんが寝てから最後まで読む。やはりそうであったか。いやこれもすごい作品でした。小説としてのスタイルはミステリのものだが、スピリットはSFのもののような気がする。それでも、このどんでん返しはミステリファンが読んでも充分楽しめるものだと思うし…まあ要するに両方の要素が詰め込まれた面白い小説だということですな。
▲2月27日(金)▼
今日は日帰りで静岡まで出張。移動中に「TUBEst III」(TUBE:→【amazon】)を聴く。さすがにベストも3枚目となるとあまり良くない。こうなることが予想できたのに出張時にEXILIMに入れてきたことを後悔する。ネタが切れたのか、ヒット曲を録音しなおしたものを収録してあるが、アレンジを変えて全く良くなっていない。これじゃ、曲が可哀想だよな…と思われるようじゃイカンでしょう。
新幹線に乗るまでは移動中に「春の軍隊」(小松左京:新潮文庫 1979:→【amazon】)を読む。今日は「こういう宇宙」を読み終えた。この作品も、ありふれた日常と宇宙というまったく懸け離れたものを組み合わせたものなのかな。これも、この圧倒的な表現力があるからこそ心に迫ってくるのだ。自分も土星の衛星からこの巨大惑星とその輪を呆然と見つめているような気分になってしまうのである。
そして例によって「宇宙と知性の関係」について思いをはせることになる。この問いかけは、この人のライフワークなのである。自らの卑小さに対する絶望感があるのかな。それでも、宇宙にはどうしようもなく惹かれてゆく。
そういう、「宇宙の大きさ、人間の小ささ」というテーマかと思っていたら、今度は「遺跡」というキーワードが。まったくこの人は、短編にどれだけ話を詰め込めば気が済むんだ。そしてその「遺跡」にある「機械」の機能とは…今となってはそれほど驚かされるようなネタではないが、それでもいろいろと考えさせられる話ではありますなあ。
ふと外を見ると、一面の雪景色。関ケ原のあたりのようだ。そうか。昨日「冬が遠ざかりつつあるのを感じる」と言いながらも、新幹線で半時間程度のすぐ近くにはこういうところもあるんだな。
新幹線の中では、「The S-F Writers 現代日本SF作家25人作品集」(1995)というのを読みはじめる。早川書房創立50周年のS-Fマガジン増刊らしい。こういうB5版の本は今日のように長時間電車で座っていられるようなことがないと読めないからな。SF作家でまだ読んでいない人もいっぱいいるので、とりあえずこういう本で一通り読んでみようという思惑である。
まずは新井素子氏「大きなくすの木の下で」である。私ゃこの人がデビューした時にはすでにSF読みで、そのときに「あたしの中の……」も読んだのだが、どうにもピンとこなかったんだよな。彼女と同い年の弟もそういう感想だった。ただ、ウチの妹はこの人のファンで、彼女の描いたマンガの中では主人公の本棚にこの人の作品が並んでたりしたのである。でもなあ、私がSFから離れたのはこのあたりからだったような気がしないでもない。
話の内容としては、「魔物と取引して人生を変えられるなら。そして、人生をやりなおせるなら…」という話である。まあ、描いてあることはわかります。こんなに冴えない人生でも、やっぱり愛しいのよね。
次は大原まり子氏「ラヴ・チャイルド(チェリーとタイガー)」。面白くねー。やはりこの人は世間の評価ほどには面白く感じない。
続いて梶尾真治氏「木曜日の放課後戦士」。ネタは面白いが、もうひとひねり欲しかった。
往復で4時間も新幹線に乗ってるとどんどん読める。川又千秋氏「彩南島航海記」。うーん、このネタはちょっと無理があるんじゃないかなあ。
そして神林長平氏「幽かな効能、機能・効果・検出」を読んでいて大阪に着いた。新幹線を降りてからも読み続ける。腰が痛いので遠回りしても座って帰るのである。うーん、やっぱり私にはこの人の書いたものはまったく面白くない。まず語り口が面白くないし、書いてある内容も何が面白くてこういうことを長々と書いているのかまったく理解できない。この人が主流のSFファンから崇拝されているのにもかかわらず何で私には面白くないのかを考える方が面白いほど面白くない。まあオレの頭が悪くてテーマが理解できないということなのかもしれないが。
いや、これだけ業界内の評価が高い人だから、ひょっとすると今回は凄く面白くて前に書いたことを否定しなければならなくなったらどうしよう…とか思って面白いことを恐れながら読んでいたところもあったのだが、実際に読んでみるとやっぱり面白くなかったのでちょっと安心したところもあるんだよな。
そして今日の最後は菊地秀行氏「旅人たち」。いやー、哀しい話ですねえ。人類がこういうふうになってしまうとは。希望があるように見えるラストだが、やっぱりこれは人類としては哀しい話なんだろう。
▲2月28日(土)▼ →
今日は私が息子を眼科の医者に連れて行く。2人でそれぞれの自転車に乗って医院に向かう。カミさんからはかなり待つように聞いていたのだが、それほど待たずに診察を受けることができた。ドクターは息子を見るとまず、かなり症状がひどいようなことを言う。ため息をつきながら診ている。それでも、前回よりは良くなっていると言われたのだった。
今日も一週間分の日記の素が入っているディレクトリをLinuxザウルスのSDカードからCFカードにコピーしてパソコンに挿す。すると、今週も先週と同じくそのフォルダの中が壊れているのである。うーむ、どうしたんだ。それで先週と同じくディスクチェックをしてからそのフォルダを消そうとすると今回は「ファイルを削除できません。送り側のファイルまたはディスクから読み取れません。」というエラーが出て消せないのである。Linuxザウルスに挿して中身を見ようとするとフリーズしてしまう。ひえー、これはもう初期化してデータを入れ直すしかないのか。そう思いながらも念のためもう一度「ファイルシステムエラーを自動的に修復する」と「不良なセクタをスキャンし、回復する」にチェックをつけてディスクチェックをやってみると、そのフォルダはわけのわからないファイルに変わっていて削除できたのだった。ほっ。
ときどき認識しなくなるとはいえ、いつもはLinuxザウルスでちゃんと読めているのに2週続けて同じ障害が起きたということは、何か原因があるはずだ。そう思ってよく考えてみる。一つ思い当たる点がある。Linuxザウルスからカードを抜くときに「カード取り外し」をせずにサスペンド させて抜いていたのだ。どうも更新した内容がまだキャッシュからカードに書き込まれていないのではないだろうか。うーん、更新した直後ならともかく、しばらく置けば書き込まれると思ってたんだがなあ。そう考えれば、Linuxザウルスに挿しなおしたら削除したはずのフォルダが復活していたのも説明がつくし、直接CFカードに書いていてデータが消えたときも原因はカードを認識しなくなったせいではなくてその後にフリーズしてキャッシュが消失したせいなんだろう。うむ、疑問を解消できる説明を思いつくとスッキリしますな。
▲2月29日(日)▼ →
カミさんが居間の隣の部屋にテレビを置きたいと言いだした。でもその部屋にはアンテナ線を引いてないのである。それで今日、電器屋さんに工事に来てもらうことになっている。まだ建てて1年経ってないんだけどねえ。電話があって昼前にやってきた。しかし、カミさんはお義母さんと買い物に行くと言って息子を連れて出て行った。娘は寝室で寝ている。彼女が泣き出さないかと冷や冷やしながら電器屋さんの対応をするのである。
電器屋さんはどうやって線を引くか悩んでいる。外からエアコンの穴を通すのもかなり遠回りになるみたいだし、居間から引くのも壁に穴を開けねばならないので気が進まないようである。床下収納はないかと訊かれる。そこから入って床下を通すことができないかということのようである。しかし居間は床暖房を入れたので床下収納は洗面所に設置しているのである。けっきょく、居間に来ている線を分配させ、壁に穴を開けてそこから畳の下を通すことになる。畳の下の床も剥がすのかとドキドキしたのだが、畳を剥がすと床板と横木の間に隙間があるのでそこを通すのであった。けっきょく最後まで娘は寝ていてくれた。電器屋さんを見送ってホッと胸をなで下ろすのである。
娘は最近、母親の膝の上で身体を支えられてピョンピョンと脚を屈伸するのが好きだそうである。息子がそれを見て自分もやってほしいと言うらしい。おいおい、それはキミにはこの年齢の頃にさんざんやってやったことだろう。キミもそれが好きだったんだから。しかしそんな時期のことを彼が覚えているわけもなく、けっきょく私のところにお鉢が回ってくるのである。でも24kgは重い。高く跳ばせていると数回で息が上がる。それでも彼の欲望は尽きることがなく、何度もせがまれるのである。そういうことをやっていると「アストロ球団」を思い出してしまうくらい私は年寄りなんだよなあ。
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