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3月1日(月) 
今日は通勤中に「THE INTERGALACTIC COLLECTION」(m-flo:→【amazon】)を聴いている。CDTVとかで断片的にしか聴いたことがないのだが、それでもこの女声ヴォーカルは巧そうだと思ったのだ。しかし、オープニングを聴いて落胆。このグループに限らず、なんで日本語のラップってのはこう変なんだろう。アメリカのラップはあんなに格好いいのに。

ニチャニチャべちゃべちゃして、これでは日本語としてもラップとしても中途半端だ。もうちょっと歯切れよくリズムに乗せられないものなのかね。字足らずになって伸ばすのがいかんのかなあ。…いや、音程の動き自体がおかしいような気がする。妙に上下するんだよな。このあたりはリズムは速くてもまるで謡曲だ。若い世代でも日本語の歴史からは逃れられないということなのか。

今日も昼から京都に打合せに行くことになる。移動中に大阪駅前ビルの古書店街に寄り、「果しなき流れの果に」(小松左京:ハヤカワ文庫 1973:→【amazon】)「継ぐのは誰か」(小松左京:ハヤカワ文庫 1974:→【amazon】)「復活の日」(小松左京:ハヤカワ文庫 1974:→【amazon】)「御先祖様万歳」(小松左京:ハヤカワ文庫 1973:→【amazon】)を見つけて買ってしまった。ハヤカワ文庫版で状態もいいから買いでしょう。他のバージョンは手元にあるし、ハヤカワ文庫版も実家に行けばあるというのに買ってしまうのである。バカと言わば言え。しかしこれ全部、2年の間に出てるわけですか。トンデモナイことですな。

そういうことをしてると遅くなってしまった。急いで阪急の梅田駅に向かい、何とか予定していた特急に間に合う。クロスシートじゃないが、ギリギリに飛び乗るとすでに座っている人の横に割り込ませてもらうような感じになるから、こういう場合はロングシートの方がいいか。

途中の駅で小汚い格好をしたオッサンが乗ってきて私の前に座った。パンパンに膨らんだ手提げ袋を3つ持っている。のぞいているのは、1つめは英字新聞、2つめは大量のビニール袋、3つめは衣類のようだ。…と、臭い。これは垢の匂いか。一人ぶん間を空けて座っていた兄ちゃんが立ち上がって別の車両に移動する。私も耐えられず、離れた席に移動したが、それでも臭い。次の駅で乗ってきたオバサン2人連れが隣に座ったが、平気な顔である。気にならないのだろうか。私は耐えられず、ついに隣の車両に移動する。ああ、空気を吸うのに抵抗がないってのは素晴らしい。

京都に着き、四条堀川のあたりを歩いていると、前を学生服を着た一団が歩いている。修学旅行だろうか。こういうビルばかりのところで何をしてるのやら。ここではこういう集団はあまり見たことがないのだが。NHKドラマの影響かなあ。中高生がああいうものに影響されるとは考えられないのだが…いやSMAPの人も出てたっけ。

長時間移動するので「ハイウイング・ストロール」(小川一水:ソノラマ文庫:→【amazon】:→【bk1】)を読み始める。いやー、面白いねえ。わくわくしながら読める。まだまだこの人の勢いは衰えないな。少年の成長物語だが、そのうちにこの世界が現在の我々の世界の延長線上にあるものであることが見えてくる。しかし、毎回こうやって世界を構築するのって、大変だろうなあ。

今日は珍しく打合せが早目に終わったので、帰りにヨドバシに寄り、ポイントでLinuxザウルススタイラスを買う。2ヶ月近くスタイラスが無い状態で使ってきたが、それほど不便は感じなかったな。キーボードは偉大だ。

家に着いたのは20時過ぎ。玄関に入ると居間から息子が駆けてきて、まだ土間にいる私に飛びついてくる。踏ん張って抱きとめると、腕の中で「父ちゃん、早よご飯食べて一緒に寝よ」と言う。そうかそうか。寝るときは父ちゃんが好きなんだよな。母ちゃんだと眠る前に下りてしまわれるからかな。



3月2日(火) 
出勤前、着替えるために寝室に入ると、娘と目が合ってしまいニコッと笑われたので思わず階下に連れて下りる。もう「いないいないばあ」に反応するようになっている。まあ、まだ「見えなかったのが見えた面白さ」に反応しているのではなくて、親が声を上げて何かしているのに反応しているだけのようなんだが。

今日も昼から京都の客先に移動して打ち合わせ。移動時間が長いのでベスト盤をということで、移動中には「Mr.Children 1996-2000」(Mr.Children:→【amazon】)を聴いている。ベストだというのにかなり地味である。無理して売れなくていい、って感じなのかな。

引き続き移動中には「ハイウイング・ストロール」(小川一水:ソノラマ文庫:→【amazon】:→【bk1】)を読んでいる。「SFが読みたい! 2004年版」(→【amazon】:→【bk1】)に掲載されていた対談を読んでいても著者のサイトを見ても小川一水氏が秋山瑞人氏を意識しているのはわかるが、この作品では戦闘場面で(体言止めの連打、というのかな)秋山瑞人的な表現が取り入れられているように感じる。他のところの文体とはかなり違っているのだが、逆にそれが効果をあげている。うまく取り入れていると言ってもいいんじゃないだろうか。

そして、帰りに読み終えた。オジサンから言おう。少年よ、これを読め。ちょっとえっちなところもあるが、この程度なら問題あるまい。しかし、この人はいったいどこまで行ってしまうのだろう。たしかにまだ登場人物の心の動きに納得できないところはある。しかし、そういうものをすべてねじ伏せてしまうだけの力がこの物語には、ある。これだけの世界を創ってこの1本だけではもったいないなあ。

そしてまた「春の軍隊」(小松左京:新潮文庫 1979:→【amazon】)を読み始める。今日は「薮の花」を読み終えた。日本人なら誰でも知っている「あの話」を元にした短編である。子供のない夫婦に訪れた異変…そう、娘ができるのって、こういう感じなんだろうな。…とか思いながら読んでると、「性」とか「セクシイであること」に関する考察が始まったりするところがまた小松左京。それでも物語の主旋律がしっかりしているから、こういう理屈っぽいところがまったく気にならない。そして、このエンディングの余韻がまた、職人の技。いやー、いい仕事してます。



3月3日(水) 
今日は通勤中に「The Stranger」(Billy Joel :→【amazon】)を聴いている。ロック史に残る名盤だと言われていると認識していたのだが、期待したほど良くなかったな。

引き続き「春の軍隊」(小松左京:新潮文庫 1979:→【amazon】)を読んでいる。今日はまず「オフー」を読み終えた。オフーという健康食品が人々の間にものすごい勢いで拡がってゆく。中南米で発見され、末期のガンを含め万病に効くという…。「民間療法や健康食品に対する渇望というのは30年前も今も変わらないんだなあ」と思いながら読んでいると、それが思いもよらないものとつながりを持っていることがわかってくる。そしてさらに、筆者の筆は文明論の領域に踏み込んでゆく。そう、人類が「こういうもの」と出会ってしまうと、文明のフェーズが変わってしまうのだ。ふつうの人はこういうこと考えませんよ。そしてそれを裏側から描いているのがまた巧い。ラストの描写も素晴らしいよなあ。で、気がついて調べてみると、これが23ページしかないのに愕然とする。ほんとにこれだけしかないのか? しかも、これを「プレイボーイ」に書いていたというのがまたスゴイ。

続いて「DSE=SJ」を読み終えた。いやー、これだけいいSFが続いてきて、最後がホラーだとは思いませんでしたな。怖いのは怖いが、ちょっと期待外れ。

今日は久しぶりに外出せず落ち着いて仕事をする予定だったのだが、某客先でウイルスに感染したということで昼から急遽出かけることになる。それで、予算の関係でウイルス対策ソフトを入れてもらっていなかったサーバにインストールすることになる。東京のサーバにリモートで設定して一括でチェックしていたら20時までかかってしまう。けっきょく、予定していた仕事がぜんぜんできなかったのだった。



3月4日(木) 
今日は朝から京都で仕事。それで移動中に「Martini Blend」(鈴木雅之:→【amazon】)を聴いている。ミディアムスローと同じくこれもベストで、アレンジがオリジナルとは変わっている。しかし、「ミディアムスロー」ともまた変えているのである。「ミディアムスロー」がアコースティックなら、こちらはメロウという感じだな。個人的はこちらの方が好きだ。しかし、出すたびに録音しなおすというのは、いろんな歌い方がしたいし、またそれができる自信があるということなんだろうな。そしてラストの「END OF THE ROAD」。カバーをあえてベストに入れただけあって、力が入っている。この曲をヴォーカリストとして歌いこなしてみたい、という気持ちはわかるような気がする。

今日は「ダレカガナカニイル…」(井上夢人:講談社文庫:→【amazon】:→【bk1】)の解説で誉めてあった「オルファクトグラム」(井上夢人:→【amazon】:→【bk1】)でも昨日の帰りに買って帰って読もうと思っていたのだが、ああいうことになってしまったので買えなかった。今は気力が落ちているので(いつもか)面白くない危険性があるものは読む気にならない。そこで先日買ってきた「継ぐのは誰か」(小松左京:ハヤカワ文庫 1974:→【amazon】)の出番である。思えば、前に読んでから四半世紀以上の時間が経っているのだ。ミュータントテーマであることくらいしか覚えていない(苦笑)。「果しなき流れの果に」(小松左京:ハヤカワ文庫 1973:→【amazon】)は何度も読み返して涙しているんだけどね。これだけ自分が変わっていれば、読むことによって見えてくるものもまったく変わっているだろう。小松先生の作品は奥が深いし。しかし、この文庫本の初版が出たときには筆者は43歳…今の私より若いのか。なんだか今の自分が哀しくなってきますな。

読み始めると、四半世紀経った今読んでも「ありうる近未来」として読める。これは凄いことだ。ポケット電話で連絡を取り、大学での研究に電子脳を使って結果をグラフィック・パネルに表示する。今では実現されていることではあるが、それでも未来的だ。違うのは煙草やドラッグが肯定的に扱われているくらいか(笑)。

情報の電子化と世界的ネットワークによる保存・検索…このあたりも現在を予見している。ただ、この作品に描かれているように有能な電子脳——今ならエージェントと呼ぶんだろうが——はまだ未来のものである。

30年経っても方向性が大きく外れていないということは、未来を描きながら地に足がついているということだ。これも技術の可能性と限界をしっかりと見極めているからなんだろう。まあ、このあたりは私が小松先生に心酔しているからそう思うのかもしれないが。

今夜は冷える。京都の仕事場を出て歩いていると頬から側頭部にかけてキーンと痛くなるほどの寒さである。もう3月なんだが、なんだかこの冬でいちばん寒いような気さえするぞ。



3月5日(金) 
今日も朝から京都で仕事をするのでベスト盤ということで「GREATEST HITS」(浜田麻里:→【amazon】)を聴いている。基本的に、いくら高くてもヘビメタの発声はあまり好みではないはずなのだが、この人の声には爽快感がありますね。

引き続き「継ぐのは誰か」(小松左京:ハヤカワ文庫 1974:→【amazon】)を読んでいる。昨日「これだけ自分が変わっていれば、読むことによって見えてくるものもまったく変わっているだろう」と書いたが、前回30年近く前に読んでから自分が変わっているだけではなくて、社会も変わっていることに否応なく気づかされる。それも、この物語で提示さている問題点がより切実になる方向に。「全地球をおおう電子情報網が文明の、最大のウィークポイントとなりつつあった」という記述も、今となってはあまりに当たり前で切実で、読んでいて笑ってしまうくらいである。30年近く前に読んでいた10代の頃は、当然のことながら全然ピンとこなかったんだけど。

読み続けていると「文明と、人間の内にある自然のせめぎあい」というのが物語の一つの軸になってくるような予感がある。同様に「西洋とそれ以外の対立」も。人類の進化というものが太い道として見えていないとこういうものは描けないよなあ。人類レベルでの大事件に巻き込まれつつある、この重苦しく謎めいた雰囲気は、「虚無回廊」などでも味わったことのあるものだ。

この作品の最も卑小なテーマとしては「常識外の殺人事件の犯人探し」というものがある。この、犯人を突き止めるための方法論というか思考の過程というか、そういうものが実に知的でエキサイティングである。犯人との「知的な闘い」。読んでいてワクワクする。まるで自分も頭が良くなったような。そう、ここしばらく「当たり」の小説を何本か読んでいるが、これだけ頭が鍛えられるような感覚があるのは小松左京ならではですな。

しかし、登場人物たちの、この知能の明晰さと志の高さはどうだ。私などいくら望んでもたどり着けない境地だ。だからこそ読んで心を動かされるのであるが。こういう登場人物たちを創造し、動かしている筆者のキャパシティの大きさというのは私などには想像もつかないのである。

10代の頃に、描かれたほぼリアルタイムで、このような作品を読めた自分は幸せだったと思う。息子の世代などでは、設定(というか用語)の古さが目についてしまうかもしれない。それは勿体ないことだなあ…などと思いながら読んでいるのである。



3月6日(土) 
CPUサーバに接続している120GBのUSB2.0ハードディスクが一杯になってしまったので、2月18日の帰りにヨドバシに寄って160GBのUSB2.0ハードディスクを買ってきてある。まだハードディスクを増やすのかと言われそうだが、これはもう、強迫観念としか言いようがないのである。IEEE1394の方がいいと思いながらも5000円の差があるのでUSB2.0にしてしまった。まあ、そんなに速度を要求されるような用途じゃないし。それで、今週になってCPUサーバに繋いで、120GBのディスクからデータを移しているのだが、これが例によって異様に遅いのである。やっぱりハブ経由で繋いでいるせいなんだろうか。

タスクマネージャを表示してもほとんどCPUは使ってないからUSB機器を繋ぎすぎてマシンに負荷がかかっているということはないと思うんだが。これは一度別のマシンにネットワーク経由でコピーしてから戻してくるか、それともメインマシン用にUSB2.0用のPCカードを買って一時的にこちらに繋いでコピーするか…などと考えていたりした。しかし、とんでもないところからアクセスが速くなる方法が見つかったのである。

今朝になって、データをコピーするのにあまりに時間がかかるので、同時に別の処理を実行した。するとCPUが100%まで振り切れたのだが、コピーがコロコロと進むようになってしまったのである。ディスクのアクセスランプも、今までは点灯しっぱなしだったのが点滅するようになった。どうも、CPUを酷使する処理が走っているとアクセスが速くなるようなのである。そう考えればDVD-Rへの書き込みが凍ってるように見えたときに「監視してないと動かないのか?」と言ってたのも、リモートコントロールされてるとそれによってマシンの負荷が高まるのでUSB経由の書き込みが高速化したせいのような気がする。

それでSETI@homeの最新版をダウンロードして入れてみる。常時動作するような設定にして動かしてみると、コロコロとコピーできるようになってしまったのだった。それまで一晩置いておいて数ギガもコピーできなかったのが、残り100ギガ近くのコピーが半日で終わってしまった。うーん、よくわからん。やっぱり、OSのディスパッチングのアルゴリズムが馬鹿なだろうなあ。

息子が買い物に行くと言っている。彼はあまり買い物はしない子供なので何を買うのか訊くと、「ガチャガチャにトリビアがあるねん」と応える。よくわからないのでさらに訊いてみると、家の近くの煙草屋の前にガチャポンがあって、そのカプセルの中に「へぇボタン」があるという。そんなもの当たらないから止めておいたほうがいいんじゃないかと言っても、彼は買いに行くと言い張る。そういう方面には物欲が強いんだな。誰に似たんだ。まあ、君のお小遣いだし、ふだんは使うこともないみたいだからいいんじゃないかな。こういうことで金を摩ってしまう経験をするのも勉強だ。

しばらくすると息子は帰ってきた。なんと、1回目で当たったという。へえ、そりゃすごい。キミはくじ運が強いんだね。カプセルから取り出し、電池消耗防止用のシートが挿し込んであったのでそれを引き抜けば、小さいながらもボタンを押すと「へぇ〜」と声を出して光る。よくできている。彼は非常に嬉しかったようで、「こんなん当たるなんて、幸せやなあ」とかずっと言っている。そんなに嬉しかったか。

今日もLinuxザウルスで書いていた日記の元データをCFカード経由でパソコンに移す。今週は「カード取り外し」をしてからカードを抜く。すると、何の問題もなく読み込めたのであった。やはり、それをやって取り外さなかったのが原因か。でもなあ、キャッシュの内容は負荷が低いときに書き込んでおくべきものだと思うんだけどなあ。



3月7日(日) 
娘が自力で移動する方法を発見した。座布団の上で仰向けになって下半身がはみ出した状態で、脚を曲げて床を蹴ると座布団ごと滑って移動するのである。脚を屈伸するたびに景色が変わるので、彼女は非常に嬉しそうである。目を輝かせながらやっているのだが、それでも数十センチも移動すると疲れてしまう。今夜はお兄ちゃんを追いかけて移動していたのだが、彼は逃げて隠れるので半ベソをかきながら脚を動かしている。妹に母親を取られた兄としては、意地悪をしたい気持ちもあるんだよね。



3月8日(月) 
今週はずっと朝から京都で作業なので、通勤中にSOUND DRIVEを聴くことにする。君の詩と同じく、通販専用の4枚組みCDである。今日は1枚目を聴いていたのだが、やはり洋楽よりはニューミュージックの方が「懐かしさ」を喚起する力は上だな。こっちの方が知らない曲も多いし。でも「TAKE A CHANCE」(CHERYL LADD)、「ANGEL OF THE MORNING」(JUICE NEWTON)あたりは知らなかったのだが、なかなかいい曲だな。

引き続き「継ぐのは誰か」(小松左京:ハヤカワ文庫 1974:→【amazon】)を読んでいる。人類の近未来の姿を描いていたと思ったら、今度はアマゾンのジャングルの深い闇が描かれる。このあたりのコントラストも巧い。そのジャングルの中での、新人類と旧人類の最初の対面の場面は感動的である。

そして、怒涛のように語られる彼らの歴史。素晴らしい。これほど架空の歴史を、これだけの説得力をもって表現できる人間がいるだろうか。今読んでもなお…いや、今だからこそ、圧倒的なリアリティがある。今こそ彼らが存在するに相応しい時代なのではないかという気さえする。30年近く前に描かれたものだから用いられている用語は旧いものもあるが、考え方自体は今でも先進的である。本物というのはこういうものなのだ。その最後に語られる彼らの要求——うわー、そうきますか。ほんとうにSFだ。

そして話の方向性が見えて安心していたらさらにどんでん返し。さらにすべてを包み込んで余韻のある結末に向かって息もつかせずなだれ込んでゆく。いやすごい。これを読んで育てば、今のSFに満足できなくなるのも当然だという気がしてきた。

継ぐのは誰か」は往きに読み終えた。家を出る前に次に読むべき本を探したが見つからなかったので「復活の日」(小松左京:ハヤカワ文庫 1974:→【amazon】)を持ってきている。冒頭の、滅亡した人類を悼む記述が重い。



3月9日(火)
昨夜はDVD-Rへの書き込み処理を走らせて寝た。等倍で書き込む設定にしておいたので2時間もあれば終わっているだろうと思っていたのだが、起きてみるとまだ3割程度しか終わっていない。等倍速と設定していてもUSBの処理速度が遅くて書き込めないのか。そこで、気は進まないがSETI@homeを常時計算する設定にすると、DVD-RAMドライブのアクセスランプが点灯するようになったのだった。世間ではCDやDVDに書き込んでいるときには他の処理は走らせないようにするのが常識のはずなんだがな。けっきょく、それから1時間も経たずに書き込みは終わったのであった。

今日はSOUND DRIVEの2枚目を聴いている。最初の3曲くらいはノリが良かったが、あとはほとんどどうしようもなかった。もっといい曲がありそうなものだが…趣味の問題なのか?

今日も朝から京都で作業。引き続き通勤中に「復活の日」(小松左京:ハヤカワ文庫 1974:→【amazon】)を読んでいる。米軍の細菌戦とそれを嘘だと言い張るアメリカ人の若者の姿をみていると、アメリカは昔からこうだったのね…と思ってしまうなあ。

いやー、怖い怖い。この物語に描かれているようなことが、今でもほんの少しの間違いで起こりうるということを強引に思い知らされてしまう。先日自殺した養鶏業者のような「大丈夫だろう」という油断が別のところで起これば…そういうところはもっと厳重に管理されてるはずだって? 今や宗教団体が化学兵器を使うような時代なんだよな。化学兵器なら効果はその場だけだが、生物兵器なら…

しかし恐ろしい。このような災厄が起これば、今まで築き上げてきたものすべて——家庭も財産も何もかも——失ってしまうのだ。この作品はそれを否応無く目の前に突き付けてくる。我々のように戦争を体験していない世代には、どうにもこうにも不条理である。こんなことで子供たちを亡くすなんて、考えられない。…ほんとうは逆に、何十年も戦火から免れているということの方が歴史上希有なことなんだろうが。

最初の方はずいぶん淡々とした描き方だなと思っていたのだが、災厄が全世界を覆いはじめるに合わせて、どんどんと切迫感を増してゆく。読みながら思ったのは、やはり極限状況の体験者は強い、ということ。表現者として。そりゃ戦争体験者がみんなこういうものを描けるわけではないが、やはり最終的なところで表現の重みが違う、と思うのである。

読み進めていくと、著者の莫大な知識の中から戦争や事故による悲惨な描写を、これもかこれでもかと見せられる。しかしこの人は、これだけ地獄のような状況を描きながら、ギリギリのところで人類を信じている。それがわかるから…いや、著者はきっと、絶望も希望もそのまま描いただけだ、と言うんだろうな。

まったく、読んでいて目の前が真っ暗になるほどの圧倒的な表現力だ。まだページ数は半ば。いったいどうなってしまうんだ。そう思いながら読み続けているのである。

家に戻ってこのサイトのアクセスログを見ていると、なんだか妙なURLから跳んできている人がいた。そこに行ってみると…論理的に「おとなり」のページを探してくれるサイトのようである。相関図のマップがグラフィックに表示されるのも面白いねえ。対象となるのは登録されているサイトだけのようだけど。



3月10日(水) 
今日はSOUND DRIVEの3枚目を聴いている。このディスクはまあまあかな。CDによって傾向を変えてるんだろうか。そうも思えないんだけど。

引き続き移動中に「復活の日」(小松左京:ハヤカワ文庫 1974:→【amazon】)を読んでいる。昨日読んでいたところではあれだけ圧倒的な筆力で人類が滅んでゆくさまを描写していたというのに、その数ページ後では人類の絶滅なんて宇宙的スケールでは取るに足らない出来事であることが示される。まったく、かなわないな。これだけ多様な視点でこれだけのレベルのものを描かれると。

そして生き残った人類たちの苦闘。圧倒的な物語に、涙が止まらない。あの有名な「最後の講義」の場面で、もう鼻水が止まらない。この学者こそが作者自身なのだろう。だからこそ彼はこの作品を世に出したのだと思う。読んでいる我々も、それに応えねばならないのだが…

後半になるともう、瞳を潤ませながら読み続けるしかない。記すべき言葉も出尽くして、もう出てこない。しかし、10代の頃に読んだときはこんなに泣けただろうか。まったく、この頃の小松左京というのは、この人の描いた作品は、私のようなレベルの人間には神がかりであるとしか思えないな。

京都からの帰りに梅田で本屋に入ると「ΑΩ 超空想科学怪奇譚」(小林泰三:角川ホラー文庫:→【amazon】:→【bk1】)が出ていたので購入する。この人の作品でSFと書いてあるなら買うべきでしょう。ホラー文庫だけど。

新書館ウィングス文庫 狼谷辰之 
 対なる  【Amazon】
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ISBN4-403-54021-X ¥620+税 



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