ホーム > 目次 > 日記 > 2006年 > 6月下旬
▲7月1日(土)▼ →
この土日は先週に引き続き、入院中の父の付き添いに行く。今日は弟が休みで付き添いをしてくれているということなので、散髪してから行くことにする。かなり前から切らなけきゃいけないと思っていたのだが、まったく切る機会がなかったのである。
雨が降っているが、今日を逃がすと次にいつ切ってもらえるかわからないからな。最悪の場合、ボサボサの長髪で父の葬儀に出席することになりかねない。それは父も望まないだろう。まあ、実家の隣が散髪屋さんなので、最悪の場合にはお願いすればやってくれるとは思うのだが、そこまで他人に迷惑をかけたくない。
ここは洗髪無しならば1500円なのだが、1万円札を出すと500円玉とお札が3枚返ってきた。お釣りを間違ったのかと思ったが、よく見ると二千円札が混じっていた。そうか、世間にはそういうものもあったのね。
今回も土日で実家まで往復するので読むのは長編をということで「都市と星」(アーサー C.クラーク/山高昭)を持ってきている。ひえー、これが書かれたのは私が生まれる前、半世紀以上も前ですよ。当時はバーチャルリアリティどころかろくなコンピュータも無かったはずなのに、こういう世界を構築できるわけですか。
作者がはしがきで書いているように「情報理論における一定の発展」によってこういうことが可能だということを考えついたのだろうが、ほんとうに優れた作家のイマジネーションというのはとんでもないものである。
そう、たしかに「ディアスポラ」はこの作品に似ている。そういう意味ではこの作品の方を先に、できれば10代の頃に読みたかったなあ。しかし、この世界は仮想現実ではないわけね。さすがに現実まで仮想化するところまでは飛べなかったか。もう一息だったと思うんだけどな、そういうものを知ってしまった身には。
この世界で「物語(サガ)」と呼ばれているものも、VRというより映画の発展形だな。立体にして多少のインタラクティブ性を持たせたという。まあそれがVRだといえばそうなんだが、映画という現実を映したものをインタラクティブにするのとコンピュータのディスプレイというインタラクティブなものを現実に近づけるというのは方向として反対のような気もする。
そして、この「都市」は通風口で空気を取り入れているのか。今だったらエネルギー(というより負のエントロピーか)を取り入れて、物質的には閉鎖系にしそうな気がするんだがな。こうなってくると、この物語は「猫の地球儀」に通じるのかもしれない。
病院への到着はかなり遅くなってしまった。弟によると父は昨夜、家に帰ろうとして騒ぎを起こし拘束されていたらしい。夕食前時間に着くように来たのだが、飯も食えなくなっているため点滴になっているので、付き添いはもう横で座っているだけである。排便もオムツになっている。あれだけ嫌がっていたのにねえ。
看護婦さんがやってきて注射しにきたというので起きるかと思ったのだが、点滴のチューブから分岐している口から注入するだけだった。看護婦さんが呼びかけてもほとんど反応はない。
父はずっと眠っている。ときどき腕を上方に(横になっているので自分の前方に向かって)伸ばして何かをしようとしているくらいである。鼻に挿入されたチューブが気になるのか、握って動かそうとする。
よく見ると、ベッドも変わっている。先週は上半身を起こしたりするときにはハンドルを回すタイプだったのだが、今のはボタンを押すだけでいいようである。
弟は病室に「宗像教授異考録 第二集」を置いていった。福岡と奈良、日向と熊野で地名の配置に相似が見られるというのには驚いた。センス・オブ・ワンダーである。しかし、瀧ちゃんはいいキャラだなあ。何も考えてないようでいてすごく深いことを考えていそうで実はやっぱり何も考えてないかもしれない…という。いや、けっきょく九州の古風な女性に憧れてるだけなんですけど。
しかし、上手いのは上手いが、かなり絵が荒れているような気がする。この絵で隔週誌に連載はちょっとキツいんじゃないの?
看護婦さんが血圧とかを測りにやってきた。指の先にクリップで留める測定器で調べていたのだが、えらく長い間装着しているなと思ったら酸素の供給を鼻に挿入するチューブからマスクに替えられてしまった。これはさらに嫌がって外そうとする。外さないように、両手に指の無い鍋掴みのようなものを被せられてしまった。これはまたストレスだろうなあ。
父はずっと手袋を外そうとしている。あきらめて慣れてしまえば楽なんだがな。この人は、あくまで(死に対しても)抵抗し続ける人なんだな。だからこそ幾多の生命の危機を乗り越えてきたんだろう。そして、ついには外してしまった。偉いもんである。看護婦さんを呼びに行って被せなおしてもらう。その後もずっと外そうと努力している。行動の自由を奪われるというのは、彼にとって大変なストレスのようである。
回復する見込みが無いと言いながら延命のために自由を奪っているというのは、彼にとって最も非道いことをしているのかもしれないなあ…などと思ってしまう。しかしこれでは目が離せない。面会時間は終わったが、落ち着くまで見ていることにする。
マスクが顔に合わないのか、鼻の穴が圧されて潰れてしまっている。もっと大きなものはないかと看護婦さんに訊いてみたが、「これが大人用なんで」と言われてしまった。まあ、それほど大量に作るものでもないので、それほどバリエーションは用意できないんだろう。鼻のところの金具で形を調節できるということで、ちょっと横幅を拡げてもらった。
昨夜のように腕を拘束してもらって実家に帰ろうと思っていたら、父は23時前に目を開けて意識が戻り、言ってることはわからないが体位を変えたり腰をさすったりしていたら23時半になってしまった。これはもう泊まるしかないな。
父の横について「都市と星」の続きを読む。記憶バンクにあるパターンに同調するように都市が維持されているわけですか。だったら、そのパターンの中に住んでいても同じじゃないか…とかいうのは、今だから考えつくことなんだな。
0時を過ぎ、父も眠りに入ったようなので夕食を買いに出ることにする。まずは駅前のセブンイレブンに入ったが、おかずになりそうなものがない。続いてローソンに行くが、手書きの値札がついてたり、なんか田舎の雑貨屋のような雰囲気である。ここにはポークバーがあったので、こちらで買うことにする。しかし、おにぎりはこちらの方が品揃えが少ない。とくに、ふつうの海苔を巻いてあるものがない。
病室に戻って食べ始めるが「焼おにぎり かつお」というヤツ、ぜんぜん旨くねえ。冷えて固くなった焦臭い味のついた飯でしかない。ふつうのおにぎりより高価かったので、かなり後悔。「健康菜園ベジタブルミックス」というのも、甘ったるくて美味しくない。なんで農協なのに野菜ジュースの味づくりが下手なんだ? 野菜は不味くて当たり前とか思ってるのか。
父は相変わらず、ずーーっと手袋を外そうと手を替え品を替えやっている。いいかげん諦めて眠ってくれないかなあ。これだけしつこかったら、とうぶん大丈夫だわ。そう思ってしまう。
夜半を過ぎると、酸素マスクを両掌で挟んで外してしまうことを覚えてしまった。そのたびに元に戻さないといけない。酸素は命綱なのだ。子供だったら新しいことを覚えたと言って喜べるんだがな。
呼吸の回数が不安定だと言って看護婦さんがやってくる。そこまでモニターされてるんですか。しばらくすると、心電図のテレメータ送信機の電池を替えにきた。
なんだか、胃がキモチワルイ。気持ちの悪い脂汗が出てくる。どうにも気分が悪いので、トイレで吐くことにする。手を洗ってノドの奥に指を突っ込むが、なかなか吐けない。やはり、かなり腹筋の力を必要とする。何度かトライしていたら逆流してきた。未消化の肉の匂いが広がる。
水を飲んでもう一度吐く。今度も派手に出た。カエルみたいに胃を裏返しにして洗えたらいいんだけどな。病室に戻って横になるとまた気分が悪くなって、再度吐く。まったく際限がないなあ。
外が明るくなってきた。もう5時。大量に水を飲んで胃洗浄に再挑戦。今度は吐き残しがないよう、とことんまで吐くつもりである。最初は胃液混じりの水しか出てこなくて、もう出し尽くしたのかなと思っていたのだが、3度目くらいからまた傷んだ肉の匂いがする吐瀉物が出てきた。胃の中では入れたものがそんなに混じらなくて先入れ後出しになってるんだな。そういうことで、普通の吐瀉物の匂いのものが出てくるまで頑張って吐く。
原因は、あのポークバーのような気がするな。店頭で裸で売っているものだから賞味期限が把握できない。ああいう、売れてなさそうな店は要注意だ。勉強をしたと思うべきだろうか。
5時半過ぎに看護婦さんが血圧を測りにきて、嫌がってるからということで酸素マスクを鼻チューブに戻してくれた。酸素の量も5リットルとか言ってたのを減らしたようだ。ついでに、私が見ているからということで、手袋も外してもらう。看護婦さんが出てゆくと、横向きなっていびきをかきはじめた。やっと安眠できますか。
▲7月2日(日)▼ →
昨夜は気分が悪くなって吐いていたので発熱とかして動けなくなったら付き添いができなくなるのでどうしようと思っていたのだが、とりあえず起きているとふつうに動ける。横になると吐きそうになるんだけど。看病に行って病人が二人になったんじゃ、ギャグにもならないよな。
7時になったので実家に電話をかける。母は、午前中は店を開けておきたいそうである。「うちの餌でないとあかん鳥もおるからな」とか言っている。秘伝の調合のようですからな。そういうものがあるから、この世知辛い時代にも商売していけるのだろう。和鳥なんてニッチな市場だから大資本が参入してくることもないだろうし。でも、法律の規制が厳しくなってるみたいだから、こういう文化も風前の灯火なんだろうなあ。捕鯨みたいなもんだ。野鳥が減ってる原因は、飼ってる人間がいるせいじゃなくて別のところにあるだろうと思うんだが。大量に密漁するのはイカンと思うけどさ。
そういうことで、今週も日曜日の午後のバスで母がやってくるまで病室で父の付き添いをすることになる。9時過ぎに白衣を着た女性二人が歯磨きにやってきた。今回は歯ブラシを使うそうである。置いてある場所がわからなくて捜し回ってやっと見つけた。起きあがれないのにどうするんだろうと思っていたのだが、歯科医のように口の中を吸引するのであった。吸引用の装置も病室内に装備されている。気管に痰が詰まったりしたときに使うのが主目的じゃないかとは思ったんだが。
母は、先週は近所の人の車で来たのだが今週はバスで来たようで15時頃になった。それから話をしたりしていると、ほぼ丸一日病室に詰めていたことになるか。それから家に戻るが、今週も駅の近くにあるらしいということでブックオフの阪急塚口駅前店に寄ってしまう。ここも、それほど大したものはなかった。商品はよく整理されてたんだけどね。空いてる棚もあったので、ひょっとすると開店して間がないのかもしれない。
▲7月3日(月)▼ →
朝である。疲れているが起きねばならない。しかし、私が起きても娘が起きないのである。私が抱き上げると怒る。それで降ろすと布団の上に転がって、また眠ってしまった。そのまま放置して階下に下りて気がついた。ああ、彼女は今日カミさんと私の父の見舞いに行くから起こさなくてよかったんだ。私が母が付き添いに行く時刻に合わせて昼過ぎに着けばいいみたいだからな。
それでも母親に起こされて下りてくると娘は「にーちゃんと、ばいばいしたかった」とか言っている。おいおい、それだったら早く起きろ。
サッカーの日本代表監督はオシムさんになるようだが、いやー、さすがにいいこと言いますな。そうだよ、自分が弱いことを認識しないといけないんだよ。
▲7月4日(火)▼ →
今朝も娘は起きられないようである。抱き上げて階下に連れて下り、床の上に降ろしてもまだ寝ている。昨日はよっぽど疲れたんでしょうか。
今日は昼から京都で打ち合わせ。11時頃には自社を出ようと思っていたのだが、障害が発生してその対応策のメールを書いていたら11時を過ぎてしまった。
それで急いで出ようとしたところに母から電話がかかってきた。父の血圧が下がってきたので来てほしいと病院から連絡があったそうだ。私も行くべきか訊いたが、土日に来てるしいいだろうということであった。
出発するのが遅れてしまったので、昼食は電車の中で食わねばなるまい。京橋のダイエーでパンと野菜ジュースにドリンクヨーグルトを買い、中央線で北新地に向かう。大阪駅前ビル地下のチケット屋で本日京都に移動するための阪急の回数券と、スルッとKANSAIのプリペイドカードを買うつもりである。まだまだ実家に行かねばならないだろうから、プリペイドカードはもっと必要だ。1往復で3000円くらいかかるからな。
北新地駅を出たところでまた母から電話がかかってきた。12時ちょっと前である(後で聞くと、仕事用の携帯が通じなかったので私用のPHSに電話したらしい。ちょうど地下を走ってたんだな)。医者が子供をすぐ呼べと言っているので急いで来いということである。打ち合わせを設定していた発注元の主任に電話したが留守電になっている。上司に電話して父が危篤だということで連絡を依頼して病院に向かうことにする。
大阪からだと、たぶんJRで明石まで行って乗り換えた方が早いはずだ。運賃は高価くなるけど。それで、チケット屋で明石までの昼得きっぷを買っている自分の冷静さがちょっとイヤ。
新快速に乗り、座れたので「都市と星」(アーサー C.クラーク/山高昭)の続きを読む。この頃の作品には、「進歩」いや、それに限らず「変化」やそれを求める精神に対する絶対的な肯定というものがありますな。今となっては、ちょっと面映ゆい。そのあたりも、現代という時代が停滞しているということなんだろう。
新快速の車内で廊下を挟んで反対側に座っている高校生とおぼしき男子がハードカバーの本を読んでいる。えらく古そうな本だなあ。それに、どこかで見たことがあるような。タイトルを見ると「夕ばえ作戦」と書いてある。ひやー、ひょっとすると、30年以上前の本じゃないですか。シブすぎるぞ、若者。名作とはいえ、よくそんな古い本を読んでるなあ。学校の図書室ででも借りたんだろうか。
明石で山陽電鉄に乗り換える。病院の最寄り駅は特急が停まらないため各停に乗り換えるのに待たねばならないのでタクシーで病院まで行こうかとも考えたが、父が土曜の夜に見せた執念深さを思えば急にどうこういうことはないだろうと思ってトイレで用を足し、各停を待つ。まあ、「死に目に会う」というのがそれほど重要なものなのかどうか、よくわからないというのもあったし。
病室に入ると13時半近く。室内はかなり緊迫した雰囲気である。父の様子を見ると、水の中から息継ぎをするように呼吸している。かなりキツそうだ。こういう状態は長くは続けられないだろう、と思ってしまう。通常の呼吸には…もう戻れないだろうか。
「声をかけてやって」とか言われるが、何を言っていいかわからない。「父ちゃん」と呼びかけることしかできない。横から一緒に母や弟妹に「父ちゃん」と呼ばれると、なんだか自分が呼ばれているような錯覚を起こしてしまう。オレもすっかり父親になっちまったな、父ちゃん。
ハッと気がつくと臨終の自分が妻子に呼びかけられている状況でこの瞬間を思い出していた…なんてことはないだろうな。ひょっとすると、そっちの時間軸に跳んでいった自分もいるのかもしれない。などと、頭が混乱してわけのわからないことを考えている。
母や妹は「死んだらあかん」とか言っているが、父は入院前に「しんどい」と繰り返していたそうだしこの状態では息をしてるだけで苦しそうだから、私にはもう、そういうことは言えない。このあたりが薄情で生命力の希薄なAB型である。
苦しそうに続けていた呼吸がいきなり途絶えた。時計を見ると13時46分。呼びかけると幾度かは間欠的に息をしたが、ついには空気を吸えなくなってしまった。
最後に大きく息をして、それで動かなくなってしまう。みんなが呼びかけると1〜2度表情が動いたが、もう息はできない。ドクターがやってきた。私は初対面だが、若い。
もう肺も心臓も止まっているようだと言う。最後に確認しますということで、聴診器を当てる。死亡確認時刻は、13時55分。…そうか、「死に目に会う」というのは、その瞬間を残された家族で共有するということに意味があるのだな。
母はなおも父に呼びかけているが、もはや何の反応もない。ついに、力尽きてしまったか。彼女は父の顔をさすりながら「とうちゃん、しぬのしんどいからしなへんいうてたやんか」と言っている。父は40年前に死にかけたことがあって、奇跡的に回復した後「あのときは苦しかったからもう死なへん」と冗談で言っていたのである。それが無理だということは、みんなわかっていたことなんだけど…
医者が、管とかを抜くのでしばらく病室の外に出ていてほしいと言う。ドアの外の廊下で親戚に電話をかける。14時前。父の実家で当主をしている従兄は「久しぶりじゃないか」という感じだったのだが、父の死を告げると絶句する。昨年の入院のときに親戚一同には一通り来てもらっていたので、今回の入院は親戚には通知してなかったのである。驚かせてすみません。
病室に戻って、母が父にすがりつくように話しかけている。もう体温が下がってきているようだ。「こんな早よう冷とうなったらあかんやん」とか言っている。私は彼女の背中をさするくらいしかできない。
上司に電話して父が亡くなったことと今週いっぱいは出勤できないだろうことを報告して病室に戻ると、見知らぬ人がいたので部屋を間違えたかと驚く。いつもお世話になっていた近所の人だそうである。母の送り迎えとかもしてもらっていたらしい。すみませんねえ、お手数をかけます。
今度は遺体を清拭するというのでまた病室の外に出なければならない。捨ててもいいタオル2枚と寝間着が必要のこと。もう病室を空けなければならないので室内を片付ける。冷蔵庫に入っていたテレビカードを取り出し、別フロアにある精算機で換金する。
清拭が終わったと看護婦さんが呼びに来た。病室に入ると、遺体の顔には白い布が被せられている。そうか、そういうものを被せられてしまうんだったな。鼻の中には脱脂綿が詰められ、両手は組んで紐で固定されている。ああ、本当に遺体になっちゃったんだ。
死亡診断書などの市役所の手続きをどうするかとか支払い方法とかについて窓口に訊きにいく。必要な書類は看護婦さんが作って持ってきてくれるし、料金はまだ確定できないので落ち着いてから改めて支払いに来ればいいということであった。
近所の奥さんが、これからやるべきことを思いつくまま書き出して整理しようと言いにくる。まあ、こういうのは葬儀屋の人の言われるままになりがちなんだよな。話していると弟がやってきた。手に封筒を持っている。死亡診断書だった。
15時を過ぎたのに、私も含めてウチの家族はまだ昼食を食べていない。妹と弟が買いに行っている間に私は自分のパンを鞄から出して母と分けて食っている。
近所の奥さんが、遺体を家の中が寝かせられるようになっているかと訊いてきた。母は慌てて出てきたので家の中は片づいてないそうである。そういうことで、母と妹には近所の人の車で先に帰ってもらうことにする。
弟が戻ってきた。あと10分で葬儀屋の人が来るという。それで彼は家に帰るまで昼食が食えなくなる。
そしてついに、葬儀屋さんがやってきた。黒い背広を着た若い男である。その後から白衣を着たオジサンが移動式のベッドを押してきている。
遺体を病室のベッドから移動式のベッドに移すというので、また病室の外に出る。なんか室内で想定外の事態が起こっているような雰囲気である。覗き込んでみると、右首の辺りから出血しているようだ。中心静脈カテーテルを入れていたところかも。父は肝臓がやられていたので、出血が止まらなくなっていたのだ。
ベッドが病室を出るときに看護婦さんたちにお礼を言うが、彼女らも出口まで見送ってくれると言う。こういう「退院」もあるんだな。
そしてベッドに付き添って廊下を通り、荷物用のエレベーターに乗る。看護婦さんの一人がもう一人に『「開」と「開延長」を同時に押してから行き先の階を押すんや』とか言っている。エレベータを「専用運転」にする方法を教えているらしい。そうだな、エレベータを待っていて扉が開いたら遺体を積んだベッドが…ということが起きちゃいけないからな。
担当の看護婦さんたちが地下の出口まで見送ってくれる。出口のところにドクターが待っていた。そして、黒塗りの車に乗り、家に向かう。遺体は外から見えないようになっているので、こういうときでもLinuxザウルスで日記を書いている自分がちょっと嫌になる。でも、書いとかないと何もかも忘れちゃうからな。
父の布団の上に遺体を安置してもらう。どうやってベッドから移すのだろうと思っていたのだが、敷き布団に取っ手がついている。合理的だ。そして掛け布団も含めて、燃やしてもダイオキシンが出ないようになっているという。こういうところは時代を感じさせますな。
そして、葬儀屋と今後の打合せを行う。いきなり「まずは葬儀の形態に2つあります」というので神式と仏式かなと思ったのだが、いやそれだとキリスト教式とか無数に出てくるだろう。どういうことなのだろうと思っていたら、家族葬と一般葬に分かれるということらしい。家族葬だと香典と通夜・葬儀への出席は、身内以外からは受け付けないということになるという。それで安価にできるということである。
葬儀の費用よりも、個人的にはいちばん面倒臭いのが職場でよく知らない人も含めて多くの社員から少しずつ見舞金が集められて、それのお礼をしなければならないというのが最低最悪に嫌なのである。そのため父には死んでほしくないと思っていたくらいなのだ。だから、親戚以外からの虚礼のやりとりを拒否できる家族葬は私にとって理想的なのだが、父は私と違って友達が多かったから母の意向が最優先である。彼女としては、本当に親しかった人はすでに亡くなっていたりするのであまり呼ぶ人はいないということだったので、最終的に家族葬にすることで合意する。
ただ母は、家族葬にしても数人は呼びたい人がいるので参列させられないかと言うのだが、葬儀屋は家族葬で身内以外が来ることを許すと帰るときに返礼品を渡すべきか区別できないので人数分の返礼品を用意しなければならなくなるので家族葬ではなくなってしまう、の一点張りである(このあたり、頭が混乱していたので理屈はよく覚えていないが)。まあ、家族葬にすると儲けが少なくなるからなんだろうけど、逆に数人だったら親戚以外の人を呼んでも区別できないからいいんじゃないかな。
それで母は近所の人に葬儀に来てもらえなくて申し訳ないと言っている。それだったら、通夜は明日なので隣保の人たちには出棺するまでの間に来ていただいて故人の顔を見ていただけばいいんじゃないかということにする。
ウチは親戚がみんな遠方にいるので今夜に通夜を行うのは無理なのだが、明日の六曜がそういうことに適さない日だったらどうしようと思っていたのだが、葬儀屋によれば今日が友引だそうである。そういう点も不幸中の幸いだな。
通夜と葬儀の日時を決め、会場や火葬場の手配をする。葬儀屋が携帯を持っているのでリアルタイムで決めていける。湯潅をするかどうか訊かれる。病院でアルコールを使って清められているのでやらなくても問題はないそうだが、お湯で洗うと関節を曲げられるので故人の好んだ衣服を着せたりすることもできるそうである。私は遺体をあまり動かしたくなかったのだが、叔父の葬儀のときに背広を着せられていたからという母の意向で行うことにする。
遺影にする写真も選ばねばならない。まず候補として提出した金婚式のときの記念写真は、印画紙の表面が平滑ではないのでスキャンして拡大すると不自然になってしまうという。けっきょくまたアルバム類をひっくり返して探すことになる。最終的には妹の結婚式のときの記念写真になった。
葬儀は昼前に行うので、昼食は斎場で弁当を食べることになるそうである。親戚が遠いので叔父のときと同じように初七日と精進落としの食事も葬儀の後に行うことにするが、会場をそんなに長く確保することができないので15時頃になってしまうという。それでは食べられないので、ウチで近くの料亭を手配することにする。
葬儀屋との打合せも、かなり多くのことを理解して決めなければならない。母がショックで混乱しているので私と弟がやらなければならない。こういうところで役立たないと、苦労して育ててもらった意味がないからな。しかし、これだけ集中して頭を働かせたのは久し振りのような気がする。こういうことをしないから頭がボケてくるんだろうか。しかし、数時間前には父は生きていたはずなのに、もうこういう話をしているのか。ずいぶん遠いところに来てしまったものだなあ。
個々の価格は仕方ないかなあとも思うのだが、それを積み上げると40万以上になってしまう。それでも他社と比べると安いらしいのだが、高価いもんだねえ。
僧侶の手配をしなければならない。近所の人に実家近くの寺に案内してもらい、通夜と葬儀のお願いをする。袈裟を着てなかったらふつうのおっちゃんだな。このあたりでは価格が決まっているということで、四十九日までの費用が20万近く。うーん、オレが死んだときにはお経なんて要らないんだが。
お経を上げに来てもらって、またいろいろと打合せ。法名(戒名)に「〜院」を付けてグレードを上げるには、本山に20万円の上納金が必要だという。そんなことに金を使っても父は喜ばないと思うのだが、母はどうすべきか迷っているようである。けっきょく、九州の親戚がどうしてるかによって決めることになる。
今夜は喪服とかを取りに我が家に帰らねばならない。なるべく遅くまで実家に居ようと思って居たのだが、そろそろ帰らねばならない時刻になっても弔問客がやってきたりしてなかなか帰れない。有り難いことだが困ったもんである。我が家に帰りついたときには23時を大幅に過ぎていた。それからシャワーを浴びて食事をしていたら1時近くになってしまう。
仕事関係のメールをチェックしてから慶弔関係の書類に記入して上司に報告し、しばらく更新できない旨を告知するようサイトを更新する。そして、明日以降に必要なものを洗い出して用意していると3時を過ぎちまったよ。こんなことで明日は早起きして実家に移動し喪主を務められるんだろうか。一生に何度もないほど責任重大な日なんだが。
▲7月5日(水)▼
娘が「おきよー」と言ってくるが起きられない。今日は父の通夜で、早起きしなければならないのだ。今日は子供たちを学校と保育所に送り出してから、カミさんと二人で実家に向かう。喪主とその妻は早目に入らねばならない。子供たちは昼からお義母さんが直接、通夜の会場に連れて来ていただくことになっている。
しばらく我が家に帰れないと思われるので、まだ読んでない長編ということで「タウ・ゼロ」(ポール アンダースン)を持ってきている。カミさんはスター・ウォーズの本である。並んで座った夫婦がそういう本を読んでいるというのは、傍から見るとすごくSFな家庭のように見えちゃうな。まあ、今ごろ「タウ・ゼロ」を読んでいるというのは、逆に薄さの証明なのかもしれないが。
急がねばならないし子連れではないので新快速で明石まで行って山陽電鉄に乗り換えるルートを選択する。実家に着くと、すでに九州から叔父の一人が着いていた。あらー、遅れてしまったか。朝の3時に出発したそうである。私はそれから寝たんですけど。九州から新幹線で来る従兄は、大雨でダイヤが乱れて大変のようである。
次々に親戚が到着し、実家の中の人口密度が高くなってくる。13時から湯潅を行う予定になっているが、それまでに昼食を済ませようということで、買い出しに行くことにする。叔父の車に乗せてもらってスーパーに行き、お茶と紙コップとなるべく動物性タンパクの少なそうな食物を買い込む。
妹夫婦がやってきた。彼らが昼食を食べようとしているところに湯潅の担当者がやってきた。オジサンとねーちゃんの2人である。2人であの重い父の身体を持ち上げてバスタブに乗せている。すげえ力だ。相撲取りみたいなのを扱うこともあると思うんだが、そういうときはどうするんだろう…などとバカなことを考えながら見ている。
バスタブは屋内に運び入れたが、庭で電源コンセントを使うとか言っていたので屋外で電気を使って湯を沸かしてそれをバスタブに入れるようになっているんだろう。
まず「逆さ水」というのを汲んでくるように言われる。手桶に水を入れて、それに熱湯を足して風呂くらいの温度にするそうなのである。母が汲んできたのだが、熱いといって汲みなおしてくるように言われる。水で埋めるのは駄目だそうである。
そしてその場の全員が、そのお湯を柄杓で汲んで遺体の足から胸にかけてかける。それから遺体の洗浄である。頭をシャンプー、身体を石けんで洗い、ヒゲを剃る。そしてこちらで用意した服を着せる。体力的にかなりキツそうだ。遺族の前でこういう微妙な仕事をするというのは大変だろうなあ。
だから費用が高価いのはわかるが、私はこういうことはしてほしくない。身内とはいえ公衆の面前で裸にされてあちこちいじくり回されたくない。私は死んでも湯潅はいいです。
そして遺体を棺に入れる。父は身長が高いので脚を曲げられてしまう。かなり窮屈だ。生きていたら絶対に文句を言われるな。昨日の打ち合わせのときにも棺桶のサイズについて確認したのだが、大きいサイズでも値段がかさむ割に数センチしか長くならないそうだ。それで通常サイズにしたのだが。
父は高いといっても172cmなのだが、今ならもっと高い人はざらにいるだろうに問題にならないんだろうか。まあ、脚を曲げればいいじゃん、ということで終わってるのかな。死んでから棺を特注してたんじゃ間に合わないからな。でもそれじゃいけないと思うんだが。
6文銭は紙の印刷物。安っぽいものである。金属はいけないということらしいが今の世の中、金属や合成樹脂が含まれていないものなんて珍しいと思うんだがな。私だったら本になるかと思ったのだが、書籍もページ数の多いものは駄目だそうである。燃えきらないことがあるらしい。本は紙といっても密度が高いからなあ。それじゃ「果しなき流れの果に」は駄目なんですか。それは哀しい。
何か入れるものはないかと訊かれて母は、父が作った木製の盆と、民謡の本から好きな曲のページを破り取って入れることにしたようである。妹も、自分の本を分割して入れると言っている。私にはそういうものはないからな。
棺に入れた後で、湯潅の担当者からこれでいいかと確認される。母が父の顔を気にしている。顔の下半分が膨れてきているのである。湯潅をする前に近所の人に顔を見に来てもらっていたときには「冗談言いそうやねえ」とか言われていたのだが、かなり変形してきている。カッターシャツやネクタイで首を締めつけているので膨れてきているのではないかということである。まあ、母が自分の選んだネクタイを着けさせたいということだから、仕方ないですかね。
母は、「とうとう箱に入ってしもた」と呟いている。こうやって、否応なしに状況はどんどん進んでいくのである。
通夜と葬儀の出席者を洗い出し、乗る車の割り振りと食事の手配が必要な数をチェックする表をExcelで作る。葬儀屋のサイトから会場周辺の地図もコピーして貼り付ける。何度か作りなおしたが、なんとか印刷して配り、それぞれの車に分乗して通夜の会場に向かう。喪主は霊柩車に同乗するのだった。
礼服に着替えるのは会場に着いてからと思っていたのだが、家を出るときに近所の方々が見送ってくださるということで家で着替える。近所の方々への挨拶は弟がやってくれたので助かった。何も考えてなかったから、いきなりやるように言われたらパニックになるところだ。
通夜の会場に着き、喪主は設備や備品の説明を受ける。布団や歯ブラシも使ったら課金されるわけね。まあ、自由に使えて高価いよりはよっぽどマシだけど。
通夜の時刻が迫るが、子供たちが着かない。連絡もないので、何か事故があったのではないかと心配だ。お義母さんは携帯を持っておられないので、こちらから状況を確認することもできない。やはり息子に携帯電話を持たせるべきかなあ。安心だフォンなら月額1000円ちょいだし、カミさんや私もウィルコムを使ってるのでさらに210円割引になる。通話は3カ所にしか発信できないが、メールができれば友達関係も大丈夫なんじゃないかな。
…なんてことを今ごろ考えても遅い。カミさんは会場の前まで出て待っているが、それで彼らが早く着くわけもない。けっきょく通夜が始まっても到着しなかった。子供たちのことが心配で、喪主だというのにもうセレモニーどころではない。
そろそろ焼香が始まるという段になって、後ろの方でバタバタと音がした。やっと到着したらしい。後で話を訊くと、今日は息子の授業が午前中だけの日だったのだが、その後に行事があって下校するのが遅くなったらしい。それだったら、出発するときにカミさんの携帯にでも電話を入れてくれたらよかったのにと思うんだがな。
通夜は出席者全員が焼香すればセレモニーは終わり。やはり、親戚だけだとちょっと寂しいか。そして隣の和室に移動してお食事である。
娘は思った通り、慣れない環境では緊張しておとなしく自分の席でじっとしていたのだが、調子乗りの息子が参列者とジャンケンをしながら部屋の中を走り回り始めると、それにつられて走り回るようになってきた。息子は大人たちに大受けである。彼の言動をこれだけ肯定的に受け止められて人気者になれる場というのは滅多にないだろう。
ある程度食べたところで、カミさんと子供たちは妹夫婦の車に送ってもらって実家に戻る。残りは会場に残って文字どおり「通夜」である。食事を片付けていて気がついたが、明日の朝食の手配が抜けていたか。まあ、今夜の食事が余ったからそれを食べてもらえばいいでしょう。
食事が終わると必要な人は風呂に入って雑魚寝。みんな遠方から来てくれているので、23時を過ぎると眠ってしまう。私はまだいつも起きている時間帯なので、Linuxザウルスで日記を書きながら線香の火を絶やさないようにする。
まあ、渦巻き型の線香も点火されてて、それは7時間もつらしいので形式的にはそれでいいんだろうが、そういう合理主義というかルールに触れなければいいだろうという考え方にはちょっと違和感を感じるんだよな。
もともと「線香の火を絶やさないようにする」というのはそれが目的ではなくて、そのことによって死者を悼むことが目的だったんじゃないかと思うのだ。そんなことを書きながらも、2時を過ぎたら私も眠ってしまいそうな気はするが。
▲7月6日(木)▼ →
弟がザウルスでネットサーフィンしだしたので、ペンタッチの音で目が覚めた。5時である。なんか、テレビも点けている。他の人たちも起きてしまったようだ。みんな遠方から来て疲れているはずなのに、大丈夫なんかいな。
昨夜の残り物で朝食を食べ、葬儀までは間があるので電報の差出人の名前にふりがなをつけたりしている。気がつくと、母親が彼女の弟妹たちと厳しい表情で喋っている。どうしたのかと訊くと、九州で祖父母や叔父などのときに使ったものに比べて骨壷が小さいとか言っているのである。
担当の人に訊いてみると、骨壷には2寸5寸7寸の3種類があり、このあたりはほとんど2寸だそうである。大きくても5寸だという。こちらの墓は小さいのでそうなっているらしい。九州の墓は大きいから7寸でも入るんだな。しかし、7寸で骨がほとんど残さず入るのを見てきた身としては、2寸ではほとんど骨が入らず非常に違和感を感じてしまうのである。
けっきょく、墓をどこに作るかという問題になってしまう。母は同居している弟が子供を作れそうにないので私の住んでいる近くに墓を作って私の子孫に供養してほしいようだが、また「息子の世代になったら日本にいるかどうかもわからない」という話をすることになる。
私は「『九州に作ってみんな一緒に入ろう』でもいいよ。何年かに1回は墓参りに行くし」と言ったが、「掃除とかどうするの」と言われてしまう。それだったらこっちに作るしかない。ロッカーのような墓には5寸のものも入らないという。
けっきょく最終的には、大きな壷にしたところで遺骨が全部入るわけでもないし、入り切らなかった骨が他の人と一緒に処理されるならそれはそれで…ということで、母親は2寸の骨壷にする決心をしたのであった。
11時から葬儀が始まる。家族葬なので参加者はほとんど変わらないし、やることも焼香くらいなのであまり通夜と変わらない。通夜と葬儀を分ける必要があるのかなあ、という気もするのである。
最後に喪主の挨拶。心臓がボクボク打っているのを感じる。そして私は緊張すると声が上ずるのである。上ずったっ!…と思うとさらに声が上ずる。しまったなあ。考えていたことの2割くらいはすっ飛ばしてしまったぞ。まあ、その方がこの場の雰囲気に合っているからいいか。
そして、棺に花を入れるのが式のクライマックス。感情の起伏が激しい息子は号泣している。孫にこれだけ泣いてもらえば、私の亡父も本望だろう。もうみんなの悲しみがシンクロして、この感情の流れに抗しきれない。まあ、これが死者を送る儀式というものだ。
その中で娘が「なんで、ないてんのん?」と訊いている。
私の小さな弟が 何にも知らずに
はしゃぎ廻って
という、まさしく「精霊流し」の世界だな。
そして蓋を閉じ、出棺である。喪主の私は位牌を持ち、続いて写真を持った母、骨壷を持った弟で棺を先導して霊柩車に向かう。民謡好きだった父の「秋田長持歌」という別れの歌が流れる。途中で急に下手になったと思ったら、そこは母が歌っていたのであった。まあ、直前に慌てて探し出してきたテープだからな。
母が言うには、40年前に病気から奇跡的に退院した父だったが、仕事に行けるようになってもすぐに体調が悪いと言って休んだりするので何か生活に張り合いが出るものを探していたところ、近所で民謡の会をやっているのを見つけて父は歌が好きだから(叔父によると、子供の頃からずっと鼻歌を歌っていたそうだ)意を決して申し込みに行ったということのようだ。それで凝り性の父がハマって私が大学受験の勉強をしているときにも階下で大声で歌われて鬱陶しく思うほどになっていたのだが、それはそれで母の必死の思いがあったのだな。
棺を霊柩車に乗せて固定するのだが、その金具が縦方向に数センチしか余裕がない。棺が小さくて遺体が窮屈なことが気になっていたのだが、棺を10センチも大きくするとこの霊柩車には乗せられないのかもしれない。ひょっとすると、霊柩車も含めたシステム全体を見直さなくちゃいけないからこういう状況になってるんだろうか。
喪主の私は霊柩車で、その他の参加者はマイクロバスで斎場に向かう。斎場は大きな工場の間の緑に包まれた地域にある。こういうところに作るのが正解だな。
そして、いよいよ火葬である。父が死んだことを理屈ではわかっていても遺体がそのままだと何となく実感がなかったのだが、いよいよもう戻れないポイントである。
九州では点火スイッチを遺族が押さなければならなかったので、母は押せないだろうから私が押さねばならないと思っていたのだが、やらなくてもよかったようだ。まあ、遺族に押させるというのも責任逃れのような気がするからな。
斎場で食事ができる部屋は狭いので、男女別々に弁当を食べる。父方の従姉夫婦が急遽参加したのでウチの子供たちの分を回したのだが、ウチの母がほとんど食べなかったそうでけっきょく1個余ってしまった。それでも、余裕を見て発注しておくべきだったな。これは私のミスだ。
火葬が終わったそうである。いよいよか。骨壺が小さいので、各部位の骨を崩して身体の下の部位から入れていくようだ。喉仏の骨を入れる前に、ちょっと入れすぎたとか言って担当者が入っている骨を上からガンガン叩いて潰す。「頭蓋骨が喉仏より下にあっちゃおかしいでしょう」とか言いながら、無神経なもんだな。
そして帰りは全員で霊柩車に乗って葬儀会場に戻る。ウチの娘が見つからないとか言っている。斎場の庭でダンゴムシをハンティングしているそうである。喪主の私は骨壺を持って動けないので、カミさんの家族に見つけてきてもらってやっと出発。しかし、ここ数日睡眠不足なので眠い。バスの中で気を失って骨壷を取り落とさないかと冷や冷やするのである。それでも何度か失神するところが何とも。
葬儀会場に戻り、カミさんの家族とウチの妻子は大阪に戻る。カミさんたちの着替えに手間取って、他の参加者を待たせてしまう。先に実家に戻ってもらった方が良かったかなあ。段取りが悪くてすみません。
そして残りの参加者で家に戻る。祭壇を作る場所をどうするかというので母が悩んでいる。西向きか北向きがいいと言われたのだが、西向きだと部屋の入り口に近いし狭いとか言っている。けっきょく、パソコン机を移動させて場所を作る。礼服がホコリだらけになってしまった。礼服を着てやる仕事じゃないですな。
四十九日までには仏壇も作らなければならない。ウチの父は次男だったので身近にはそういうものはなかったのだが、ついにそういうものを作らねばならないようになってしまったか。葬儀屋が、自分たちで安いところを紹介できるとか言っている。すぐ近くに仏壇屋があるのだが「あそこはあくどいという話です。うちもそうですけど、人の死につけこんで商売してますから」とか言っている。おい、自分も一緒か。
本来なら寺に行かなければならないそうなのだが、あちらが忙しいということで実家に来てもらってお経を上げてもらう。線香は火をつけて立てるのではなく、線香立てに収まる長さに折ってから火をつけて寝かせて入れるんだそうである。焼香は入っている金属片を蝋燭の火で熱して入れ、その上に抹香を落とすことにより燃えるんだそうだ。へえ、焼香というのはそういう仕組みになっているのか。知らなかった。
そして読経であるが、部屋が狭く人数が多いので狭い。坊さんのすぐ後ろにいたのだが、お経の本にはひらがなでルビがふってある。そういうものなんですか。
そして、近くの料亭で精進落としのお食事。どうやって移動するかという話になる。車は3台あり、それで足りるのだが、酒を飲むので帰りに乗ることができないため向こうに置いておくわけにいかない。妹夫婦は今日帰るため旦那は酒を飲まないので、足の不自由な人は妹夫婦の車に乗せてもらって残りは歩くことになるかと考えていたのだが、妹の旦那が解決策を考えついた。全員が3台に分乗して料亭まで行き、空車で実家に戻ってから飲酒する運転者2人を妹夫婦の車に乗せてまた行けばいいのである。見事な解答ですな。
そして宴会。アメリカに移民したという父方の祖父の兄の話が出たので詳しく訊こうと思ったのだが、我々の代になるともう詳細はわからないそうである。アメリカに親戚がいるかもしれないと思うと、なんか嬉しいんだが。
母の妹のうち2人は先に配偶者を亡くされているので、自分たちの経験から母のケアをちゃんとするように言いつけられる。やっぱり孫を連れて行くのがいちばんだそうである。
食事会が終わり、母の妹たち2人が寝台車で帰ることになっているが、彼女らも脚が痛くなってきているので私が荷物持ちをする。姫路駅で塩見饅頭を買いたいと言っていたのだが、もう21時を過ぎているので地下街の店はすでに閉まっていた。残念。ホームまでついてくと言ったのだが、それには及ばないということでJRの改札で別れる。ありがとうございました。
しばらく雑誌を見ていないので、姫路駅の周囲でコンビニを探す。山陽電鉄の駅にあるコンビニでは雑誌を読めそうにない。JR駅の南口まで回ってやっと見つけた。そこで雑誌を読んでいたのだが、店内で塩見饅頭が売っているのを見つけた。しかもかん川本舗の製品である。これだよ買いたかったのは。
時計を見ると、叔母たちの乗る列車の出発まで10分程度。買って届けるべきかどうか激しく悩む。改札内に入っても会える保証がないからなあ…とか思っていたのだが、よく考えれば姫路始発じゃないので停車時間は1分程度だからまだホームにいるはずだ。そういうことで買う決断をして2箱を掴み取り、レジに持っていく。前に別の客が並んだ。早くしてくれ。
入場券を買っている時間はないのでJスルーカードで改札を抜ける。入場券としては使えなかったはずだが、後で何とかなるだろう。そして電光掲示板でホームを確認して向かおうとするが、なんだか様子がおかしい。あれ、ここから上がると行けるの? 半信半疑ながら上がってゆくと、そこが目的のホームだった。姫路駅は在来線も高架になってたのか。知らんかった。今浦島である。
叔母たちはホームの待合室にいた。塩見饅頭を渡したが、彼女らも駅構内の売店で見つけてすでに買っていたらしい。ふにゃふにゃ、馬鹿みたいである。ついでなので列車が到着するまで話をして、スーツケースを車内に運び入れる。しかし列車のタラップがホームよりも低くなっていたので足を踏み外して転けそうになってしまった。恥の上塗りである。車内でも席まで運ぼうと思ってたのだが停車時間が短くて慌てて外に出る。恥の3重塗りだ。
改札から出ようとするが、案の定自動改札機に出場を拒否される。駅員のところに持っていくが、入場券として使えないので自動販売機で買うように言われる。あほう、それを承知でやっとるんじゃ。Jスルーカードはそのまま改札を通れるのが売りだろうが。けっきょく、窓口内の機械で精算してもらって帰るのである。
▲7月7日(金)▼
母に起こされる。8時である。久しぶりにちゃんと眠ったような気がするなあ。そう思って昨日までの睡眠時間を確認しようと思ったのだが、2日前はどうやって寝たか、もう記憶にない。たしか実家では寝てなかったはずなんだが。かなり頭もやられている。
階下に下りてゆくと、叔父叔母たちが話をしている。なんでも、父の実家の畑の下を削って造成し、住宅が建っているらしいのだが、そこが崩れかけているらしいのである。県も市も「これでいい」ということで許可を出したそうなのだが、先代の当主の時なので証拠もないらしい。こういう場合でも崩れた畑の持ち主が責任を問われるんだろうか。逆に、下を削られて畑が崩れたら被害者だと思うんだがな。
車で来ている叔父夫婦が残ってくれているので、その間に可能な事務処理はやっておかねばならない。まずは、故人の口座から金をおろすには子供の署名捺印が必要になってしまうので、父親名義の預金はすべて解約した方がいいと言われる。カードならばチェックできないのでおろせるということだ。そうすると、公共料金の払い込み口座も変更しないといけないなあ。年金の変更手続きも必要だし、火災保険などの名義変更もやらなければならない。あー、ややこしい。まあ、父は医者に見放されていた人なので生命保険に入れなかったというのがまだ救いか(おいおい)。
そういうことを検討している間にも弔問客が次々にやってくる。死去直後の弔問は、短く切り上げるのが思いやりというやつだな。故人の話をしたいのはやまやまだとは思うが、それが遺族のためになるかというとそうでもない。こういう時期には。
まずは農協と信用金庫の普通預金をおろしに行く。これは機械相手だから簡単。続いて定額預金の解約に行く。叔父の車に乗せてもらっていったのだが、思っていた場所に郵便局が見つからない。どうしても発見できないので携帯で実家に訊いてみると、20年も前に移転したのにと言われてしまった。すみませんねえ。馬鹿みたいである。これも今浦島。まあ、私が家を出て30年になるからなあ。
定額預金は機械ではおろせないので解約できるか心配していたのだが、母が同行して父と母の健康保健省を見せればOKだった。コピーは取られたけどね。契約者が来れない理由は「本人病気(で死んだ)のため」である。
まあ、父は病気のせいで一生ヒラだったから預金といっても相続税がかかるような額でもないし、何も後ろめたいことをしているわけでもないのだけどね。便宜上父親の名義になっているだけで実際は夫婦で築き上げてきた財産だからな。だから私も全額母のものになるべきだと思っているので相続しようという気持ちもない。
いまの日本じゃそういう夫婦が大半だと思うし、そういう意味では相続の制度は実情にあってないんじゃないだろうか。夫婦の片方が亡くなったら、その財産は何もしなくても自動的に残された方のものになるというルールでもいいような気がするんだがな。そうすると悪用されたりするんだろうか。
解約した分は、いつも来てもらっている信用金庫の男の子を呼んで母親名義の定期預金にすることになる。そっちで公共料金の変更手続きもしてくれるという。
続いて、S信託銀行に父名義の定期預金を解約しに行く。隣の市まで行かねばならない。車でも数十分かかる距離である。母によれば店舗が少なくて行くのが面倒臭いので、もうここは利用しないということである。店舗に入り、整理係のオッチャンに目的を訊かれたのに応えて整理券をもらう。しかし、番号が2系統あり、我々は300番台だが後から来た900番台の客が先に処理されている。解約の客は後回しか。感じ悪。しかし、もう付き合うこともないだろうからな。
長時間待たされてやっと我々の番になった。窓口のねーちゃんに解約だと告げると、「どの分になりますか」と訊かれる。「全部です」と応えると「全部?すぐにご入り用のご資金なんですかね?」だと。余計なお世話じゃ。もうお宅とは付き合わないんじゃ…と心の中で思いながら、にこやかに「はい」と応えるのであった。
そしてまた手続きに時間がかかる。まあ、窓口に座ってれば、ねーちゃんが巨乳だったのでそれを鑑賞してれば時間の無駄だとは思わなかったんだが(あれ、オレは微乳が好きだったはずでは)。それよりも気の毒だったのは、このあたりは滅多に来ないので駐車場の場所がわからず(そういう点でもこことはもう取引すべきではない)車内で待っていた叔父である。かなり眠かったと言っていた。疲れてるんですよねえ。すみませんねえ。
家では弟がインターネットを使って処理すべき手続きを調べている。それを見ると、NTTの電話加入権の移動は戸籍謄本が必要とか書いてある。馬鹿か。今じゃ二束三文の値打ちしかないものを。時代に遅れてるなあ。まあ、あそこはお役所だから。
弟は記帳された内容をExcelに入力するのに苦労しているようである。年賀状の住所録からコピーすればいいんじゃないかと言うが、よくわからないらしい。そういうことで、午後からは弟と交替。私は留守番で母と弟と叔父夫婦は市役所に事務手続きに行く。私は名簿の入力。その間にも弔問客がやってくる。
脚が不自由でほとんど歩けないような爺さんがやってきてその相手をしていたら僧侶がやってきた。今日は忙しいので読経は明日になると言っていたのだが、時間が空いたので来たそうである。それだったら来る前に電話でもしてくれればよかったのに。家族は私しかいないですよ。
夕方になってみんなが帰ってきた。年金関係の手続きは戸籍謄本が必要なのでできなかったという。あと、補助金5万円も火葬した証明が必要なので書類を持って帰ってきたということだ。その他の健康保健や老人保健、介護保険などの除籍手続きは済んだということである。
母と私と弟と叔父夫婦で夕食を食べる。母は、ビールを飲んで眠ってしまった。いつもなら酔いが醒めると起きてくるのだが、今日は眠ったままである。やはり疲れているのだな。タオルケットを掛けて、そのまま眠らせておくのである。
久しぶりなので夜中過ぎまで兄弟二人で話していると、1時を過ぎて母が起きてきた。すぐに風呂に入って、また寝ていただくのであった。
▲7月8日(土)▼ →
叔父が今日まで家にいて彼の車で仏壇を選びに連れて行ってくれるという。わが家の向かいにある仏壇屋はあくどい商売をしていると葬儀屋に言われてしまったので、まずは弟の店の近くにあるチェーン店に行く。値段はピンキリだねえ。安いものは数万円だが、いちばん高価いのは300万以上する。私のときは、べつに数万円のやつでいいです。
その店で、隣の市でそのチェーンの展示会をしていると言われたので行ってみることにする。途中で別の店にも寄ろうとしたのだが、閉まっていたりして入れるところがない。けっきょく、その店しか見ないまま展示会場に入ってしまうことになる。
そこで候補を絞り込もうとして気がついた。家を出る前に仏壇設置予定地の横幅と高さは測っていたのだが、奥行きを測ってなかったよ。馬鹿である。叔父が40cmくらいだったと言っている。それだとほとんど選択肢が無い。まあ、範囲が限られてた方が迷わなくていいんだが。奥行きが短いのはみんな安いみたいだし。
仏壇の中には仏像ではなく如来と開祖を描いた掛け軸を飾っておくものらしい。個人的には木彫りの仏像でも置きたかったんだがな。その方が父の好みのような気もしたし。
1社だけ見て決めるのは危険ではないかと母には言ったのだが、彼女はもうここで買うことに決めたようである。まあ、これ以上他の店に行くのは私が気力体力ともに無理だ。それに、20万ちょいで買えたからいいんじゃないかい。どんなに安くても高級電機製品の約30万円よりも高価いと思ってたからな。
そして仮契約を結び、店を出たところで遅い昼食を食べ、我が家に戻り、叔父夫婦は九州に戻る。いや、車があって本当に助かりました。経験者がいてくれた(母の実家ではここ10年くらいの間に祖父母と従弟の3人も見送った)というのも心強かったし。本当にありがとうございました。
家に戻ってきたとき母が店の前の鉢植えにしばらく水をやれていないと言っていたので庭も含めて水を撒く。しかし、この家はいったいいくつ植木鉢があるんじゃ。このあたりも凝り性の父が一時期盆栽にハマっていたせいかなあ。その間に弟が、カミさんが帰るときに置いていった荷物を宅急便で送るための荷造りをしてくれる。本来なら昨日送るべきだったのかもしれないが、雑事に追われて遅れてしまったのである。
この地区では葬式を出すと老人会や子供会等の団体に「寄付」をすることになっているということで、弟と二人で近所の人に案内してもらって世話役の人に渡しに行く。このあたりも地域のしきたりというのに従わねばならない。
今日も母は夕食を食べると眠ってしまい、23時前まで寝ている。起きてからも、かなり疲れた様子で「四十九日までにもらった分のお返しをせな…」とか言っている。こういう様子を見ていると、香典を渡すというのは相手に負担をかけているんじゃないかという気分になってしまうよなあ。義理と人情の板挟みである。
どこから嗅ぎ付けたのか、さっそくギフト会社の営業がやってきたそうである。置いていったカタログを見てみたが、表面に添付してある挨拶文が微妙にこちらの神経を逆なでするような文章になっていて、こういうところがいちばん売上に影響するのにな…と思ったことであった。
弟がザウルスの容量が足りなくなったのでメモリーカードを買いたいのだが、ここは田舎で売っているところが無いのでネット通販で注文してほしいと言われる。うーん、自分のものだったら自分の価値観で決められるのだが、他人のものとなると難しい。価格とか製品の性能とか店の信頼性とか、評価軸がいっぱいあるからな。それのバランスを取るのはもう、個人の好みとしか言いようがないのだ。
まずはカードの転送速度をどうするかで悩む。ザウルスのストレージとして使うならそれほど入出力が速くなくてもいいと思うのだが(私がCFカードを買ったときには価格が最優先だった)…それに、価格比較サイトの一覧では転送速度が書いてなかったりするし。メーカーのサイトに行っても探すのに苦労する。
あと、カードには相性問題がある。私も買ったCFカードにうまく書き込めなかったりしたし。そういうことで、シャープが動作検証した製品から選ぶことにする。そしてその中で最安価格が比較的安いものの中から転送速度が速いものを選ぶことにする。
しかし、最安価格が飛び抜けて安い店は評判を検索してみると納期が遅かったりして良くないようなので、そうするとその店を除けばまた最安価格が変わって商品の優先順位が変動する。あーややこしい。
最終的には、送料を含めばamazonがいちばん安いということになってしまう。amazonなら購入実績があるからこちらも勧めやすい。商品が届かなかったこともないのでカード決済にも安心感があるので代引手数料も不要だ。あれだけの会社が逃げることもないだろうし。
けっきょく、ハイブリッドレコーダーを買ったときにも書いたように、購入実績を積み重ねることによってamazonに囲い込まれてゆくのだなあ(他人に勧めるときにさえ)。今回は大量の商品を発送していることによって物流コストが無料になっているのも大きかった。こうやって、大手の一人勝ちになってしまうのか。
▲7月9日(日)▼
階下で弔問客がやってきた話し声で目が覚めた。9時前だ。けっこう長く話し込んでいるのでパジャマ姿では下に下りられない。まあ、このくらいの時期になると母の話し相手になってくれる方が彼女の気が紛れるかもしれないな。
今日は初七日の法要である。昨日はふだん着でいいと言っていた母が、起きてゆくと今日は礼服を着ろという。近所の人に訊いたらその方がいいと言われたのだという。昨日、カミさんの荷物と一緒に送らなくてよかった。
葬儀屋から金額が確定したという電話が来た。最終的には75万近くなってしまった。最初の説明のときからかなり増えたように感じてしまう。まあ、何も考えずにやってたらその数倍はかかっただろうからな。ただ、母は返礼が負担なようで「お返しのこと考えたら一般葬にした方がよかった」とか言っている。お返しをするくらいなら、最初からその分を引いた額を受け渡しすればいいじゃないかと思う私は礼儀知らずな人間なんでしょうな。
今日も昨日の「寄付」に対する応答ということなんだろうが、青年団の代表の人が香典を持ってきた。5千円出して2千円返ってくる決まりになっているらしい。そんなことだったら、最初からこちらが3千円寄付するだけにした方がお互い楽で合理的だと思うんだが。
午前中は食器洗いに掃除洗濯。一通り家事を片付けて久しぶりにパソコンをいじる。母の気配がしないので様子を見に行くと、彼女は自分の部屋で眠っていたのだった。やっぱり疲れているんだなあ。
午を過ぎた。13時半に坊さんが来るという予定なので昼食を食べねばならない。母はギリギリまで眠っていてもらうことにして冷蔵庫に入れてあった買い置きのパンをオーブンとスターで暖めていたら母が起きてきた。
食卓の上を見ると、さっそく仏壇屋からのDMが。どこから嗅ぎ付けてくるのやら。ふつうなら「もう来たの?」という感じなんだろうが、ウチはもう決めちゃったんだな。残念でした。
初七日には妹夫婦も来ると言っていたのだが、なかなかやって来ない。今日も遅刻してくるのかと心配していたら、10分前にやってきた。今日はセーフですな。
坊さんがやってきて、例によってお経を上げてもらう。事後の雑談で母が墓をどこに作るか悩んでいると言うと彼は、「浄土真宗は必ずしも墓を作る必要はないんです」と言う。なんでも、開祖は自分が死んだときには骨はその辺に流してくれと言い残したのだが、残された者たちがそれでは忍びないということで墓を作ったということらしい。
2万出せば隣の市の大きな寺か西本願寺に永代で預かってもらえるらしい。墓参りのようなことをしたければその寺に行けばいいし、法事は仏壇のあるところで執り行うことになるそうである。お骨が京都なら子孫代々が日本中(いや世界中)どこからでも行けるし、法事を仏壇のある実家でやるなら母が動けなくなっても大丈夫だ。それだったら理想的な解答だな。妹のお義母さんが亡くなったときも(本山は異なるが)そうしたらしい。母や妹も含めて、そういう方向で検討することにする。
葬儀屋がやってきた。明細を説明されるが、足してゆくと(納得できないが)たしかにその金額になる。食事とか花とか車とか、どうしても使わなきゃいけないものが割高になってるんだな。「それだったら自分のところで手配する」と言えればいいんだが、遺族としてはなかなかそういうことは言いづらい(それがイカンのだが)。やっぱり異業種からの参入を期待するしかないのか。
葬儀屋に仏壇はどうするかと訊かれてもう決めてしまったと応えると「うちに言ってもらえばよかったのに」と言われる。どこで買ったかと訊くので応えると、またその店の悪口を言い始める。
なんでも以前は付き合いがあったらしいが、この葬儀屋の商売敵(母も当初はここに会費を納めていたらしいが会場が遠いのと高価いという話を聞いて今回の業者とも契約したらしい)と契約してそこが3割(!)の紹介料を取るためそれが定価になって高価くなったので取引を打ち切ったとか言っている。
それだったら展示会で表示されていた定価から2割くらいは引いてもらったし、1割くらいのマージンはアンタらだって取るんだろう。そうすると直接買った方が仏壇屋の取り分が大きいだろうから仏壇屋のサービスも違ってくるんじゃないか。いずれにせよ、そういう言い方をするところを通して買わないでよかった…などと思いながら話を聞いているのであった。
そういう意味では、葬儀屋としては仏壇屋の紹介料はボロいんだろうなあ。これ以上まだ儲けようとするんかい。
「しきたりに従わなきゃ」というのでみんな言われるまま金を払ってるんだろうけどねえ。母のような昭和ヒトケタより下になると考え方も変わってきているはずだから、もうちょっとしたら劇的に変わりそうな気もするが、それまではコイツらが儲け続けることになるんだろうな。
私が実家にいるのも今日までなので、明日以降にやるべきことを母や妹夫婦と洗い出していたら、家や土地の名義を変更しなければならないという話が出てきた。父から母、母から弟と2回も相続税を取られるのは癪だから直接弟に相続したらと言ったのだが母は、もし弟が結婚して嫁の人間性に問題があれば自分が家を追い出される可能性があるので死ぬまでは自分のものにしておきたいと言う。
そうか、その可能性は考えられますな。実際に母の知り合いでそういう目に遭った人がいるそうである。そういう可能性に考えが及ばないとは、我ながらまったく甘いことである。そうやって身内を疑うことを知らないから考えなしにうっかりと引っ越してしまったんだが、まったく懲りてないな。だって、ウチの親戚はいい人ばかりで騙されたことなんかないからなあ。
そういうことで、預金も家も土地もすべて母に移管するということで妹の了解も取り付ける。べつに親から遺産をもらいたいとは思わない。この身体と心をもらっただけでいい。自分の力で稼げる範囲で暮らせばいいだけの話だ。稼げなくなったら別だけど(苦笑)
それで母が死んだら家はどうするかという話になったのだが、妹の話によると弟は両親が亡くなったらこの家に住む気はないそうだ。そうかあ、ここは田舎だから我々のような考え方の人間が暮らしてゆくのはキツいよなあ。それは理解できる。だったら、売っ払って兄妹で分けることになるか。
母の遺骨も父と一緒に西本願寺に入ってもらうことになるか。母は父の遺骨は地元の寺の領域に入れてもらうつもり(いつでも出せるらしいので墓を作るようになった時のために)のようだが、そうなるとそのタイミングで地元の寺との縁も切れるので個人の領域に移した方がいいな。そこから出すことはできなくなるようだが、たぶんウチの兄妹は誰も墓を作る気はないだろうから。
父の残したものは身近に欲しい人がいれば形見分けして、それ以外は処分することになるか。和鳥の鳴き声を録音したカセットテープなんて、残された家族には何の意味も無いものだ。まあ、趣味人の末路なんてそういうもんさ。
父には悪いが、彼は家族に対しては「要らんもんは捨てろ」と常々言ってたからな。子供の頃に鉄人28号や鉄腕アトムや8マンのシールやワッペンが机の引き出し一杯にあったのを捨てられた恨みは今でも忘れない。私は物持ちがいいから、今まで残ってれば一財産だったのに。親の財産は欲しいと思わないとか言いながら、そっちは惜しかったのである。
妹夫婦の車でスーパーに夕食を買いに行き、実家で食べてから家に帰る。弟が帰ってきたので、私や妹夫婦が帰っても今夜は母一人にはならないだろう。そして妹夫婦の車に便乗させてもらい駅まで行って電車に乗り、日記を書きながら家に向かう。書くべきことがいっぱいありすぎて、本は読めない。
▲7月10日(月)▼ →
あれは、寒い朝だった。
今から40年前の12月、当時小学2年生だった私は幼稚園児だった弟と一緒に押入の上段に布団を敷いてベッド代わりにして寝ていたのだが、起きてみると家の中には異様な雰囲気が満ちていた。近所のオジサンやオバサンが家の中に入ってきていて、声をひそめて話をしていたのである。
お父ちゃんが血を吐いて病院に行ったということらしいのだが、まだ9歳の身では何のことやらイメージできるはずもない。父も母もおらず、何やら異常なことが自分の家族に起こったらしいということを感じて不安に思うだけだった。
後で聞いたところでは、夜中に父が大量に吐血して、洗面器に何杯もの血を(誇張でなく)吐きながら、紹介されていた医者にタクシーで向かったらしい。妹はまだ生後半年だったので、母に抱かれて行ったのだろう。乳飲み子を抱えて真っ暗な道を、血を吐きながら知らないところに向かうというのは、どんなに不安だったことだろうか。
我々兄弟も病院に連れて行かれたのだが、みんな父につきっきりなので二人で肩を寄せ合っていたのだと思う。ある日、病院の階段のところで二人で遊んでいると、通りかかった看護婦さんに「坊やたち、どうしたの?」と訊かれたので黙って父の病室を指さしたら、ちょうど父が声を上げたのが聞こえて、彼女に「ああ…」と痛ましそうな表情で見られたのを覚えている。
父親は出血が止まってからも(血圧を下げたこともあり)しばらく意識不明の状態が続いていたのだが、ベッドの上で「うおおお!」というような声を上げて暴れるので、数人がかりで押さえつけていなければならなかったのである。子供心にも、自分の父親が叫ぶ意味不明な声が病室から聞こえてくるというのは、何とも言えない気持ちだった。
前にも書いたが運び込まれた先が名医でしかも開業準備中で一人の患者につきっきりになってくれたため助かったのだが、それでも何度かは危機的状況はあったようで、家に戻っていたときに父が危篤状態に陥ったということで車に乗せられ急遽病院に向かったこともあった。途中で市内最大の霊園を通ったのだが、後で母親から「母ちゃん霊園の中通ったとき『何とか父ちゃんを助けてください』て祈ってたのに、あんたら平気な顔して!」と怒られた。いや、9歳と6歳にそういうこと言われても…まあ、弟の話によると家を出るときにテレビでウルトラマンを放映していて、ちょうどケムラーが出現するところだったから行きたくないとゴネたらしいのだ。そうか、そう言われればそういう記憶もあるような。
はっきり言って、私も当時の記憶はほとんど無い。子供心にもかなりショックだったようで、「当時の学校の先生から『○○君、最近授業中も上の空なんですけど』と言われた」と最近になって母から聞かされた。
今も記憶に残っているのが、母方の祖父が九州からやってきて、家に戻って我々と祖父だけになったときのことである。祖父が自分の娘に何か慰めの言葉をかけたのだが、そのときに緊張の糸が切れたのだろう、母は妹を抱いて「この子、こんなに小さいのに父無し子になってしまうんやわ。かわいそうに!」と言うと家の奥に駈けていって泣き出したのである。祖父もかける言葉が無かったようだが、長男として自分は何もできないんだと思ったことを覚えている。実際は、娘じゃなくて自分がかわいそうだということだったんだろうけどね。ただ、母が取り乱したのを見たのはそのとき限りだった。
父が幸運だったと思うのは、当時の父の勤めていた会社が操業に余裕があり、父が工場長と友達だったらしいこともあって(ほんとうに友達の多い人だった)、現場の若くて元気な社員たちを「勤務時間中に献血に行ってこい」と派遣してくれたことである。病院の待合室に献血待ちの若い人の列が十数人並んでいたのを覚えている。体力のある人間の新鮮な血液をふんだんに輸血できたのである。そして、それで肝炎にならなかったのもラッキーだった。
それでも、何度も書いているように父は奇跡的に回復して退院したのだが、その後も私には家の中で寝ているイメージしかない。先日の通夜のときに妹が昔のアルバムを持ってきていたのだが、それに彼女が幼稚園児のときに書いた絵と文章が挟まっていて、そこにも父親は家で寝ているものとして描かれていた。
当時は日本の企業にも体力があったので、長期間病欠したにもかかわらず父もクビになることもなく、復帰してからも負担の少ない仕事で継続雇用してくれた。日本で有数の大企業に勤めていたとはいえ、このあたりもウチの家族が恵まれていたことである。
当時、ウチの一家は父の会社の社宅に住んでいたというのも恵まれていた。それでも経済的に余裕がないので、母は内職をしたりしていた。今でも覚えているのが、石油缶の蓋は金属製のキャップなのだが、それに紐を通すことによって扱いやすくするというものであった。1個あたり数円の手間賃だったと思うのだが、我々兄弟もたしか1個1円くらいの小遣いで手伝っていた記憶がある。
母が肝臓病には果物が効くと聞いたため、少ない収入にもかかわらず我が家では夕食時に毎日デザートがついた。子供としてはそれが当たり前だったのだが、まだ社会全体が豊かではなかった当時、そういう家庭は希だったそうだ。
子供に食事の好き嫌いが多かったこともあり、母はご飯のおかずも病人の父親用と子供用の2種類を毎日作っていた。専業主婦だったとはいえ、大変なことだっただろうと思う。戦前の教育を受けた人は本当に我慢強い。まあ彼女は敗戦で手に持てるだけの財産しか持たずに外地から引き揚げてきたところで父親が肋膜炎で倒れて次の妹がガンになってもう一人が足を骨折するという、絵に描いたような不幸な状況だったこともあるらしいからな。6人姉弟のいちばん上だった彼女は地の底を這いずり回るような大変な苦労をしたらしいので、それに比べれば…と言うのかもしれない。彼女もその当時の話はあまりしたがらないし、またそれは別の話。
しかしそれでも、いくら運がよかったとはいえ、あの強靱な体力と強い意志がなければ医者が見放した状態から生き延びることはできなかっただろう。もしあのときあのまま亡くなっていたら、我々一家の運命はどうなっていただろうか。九州の親戚たちは引き取る準備をしていたという。母は帰るつもりはなかったと言っていたが…いずれにせよ、これほど楽に大学まで行けなかっただろうと思う。最後に、生きている間には言えなかった言葉を言わせてください。
生きていてくれて、ありがとう。
◇ ◇ ◇
ここしばらく全く休んでないので、今日は仕事を休んでプライベートで溜まっているやるべきことを片づける。息子は学校の創立記念日なので、母親とUSJに行っている。娘は保育所に行き、お義母さんに迎えに行ってもらうことになっている。
家の外には一歩も出ず、ダラダラと過ごす。夕食は、カミさんと息子が買ってきたものを一緒に食べる。食事を終えてカミさんが娘を実家から連れて帰ってきたが、えらく面変わりしてしまったなあ。葬儀から帰ってきてから近所の散髪屋で髪を切ったそうなのである。やっぱり女の子はヘアスタイルで変わるのね。
そして私も息子に「父ちゃん、横のとこ、白髪増えたな」と言われてしまったのであった。まあ、いろいろありましたからね。
【妹の本】
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